「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
「ベテランが率先してサボっていた」広岡達朗は“弱小ヤクルト”の何を変えたのか? 杉浦享が伝えたい感謝「本当に厳しい人だったけど…」
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph byYuki Suenaga
posted2024/03/30 11:03
ヤクルト初優勝の1978年から46年が経過し、71歳になった杉浦享。現在も「広岡さんへの感謝」を忘れることはなかった
こうして、スワローズは下馬評を覆して初の日本一に輝いた。杉浦は全7試合で「六番・レフト」でフル出場。24打数7安打4打点と気を吐いた。
「前年暮れに結婚して、寮を出て新生活を始めて、子どもも生まれて。そして、広岡さんに抜擢してもらってリーグ優勝、そして日本一も経験できました。僕の人生においても、本当に幸せな一年となりました」
記念すべき年に誕生した愛息は優勝を記念して「優」と名づけられた。1978年は公私にわたって、杉浦にとって忘れられない一年となった。
「タガが外れた」ことで失速した1979年
夢のような一年を過ごした翌年、すぐに悪夢が訪れる。スワローズは開幕から8連敗を喫し、広岡はシーズン途中で退団してしまった。何もかもが前年とは一転してしまった陰鬱で、重苦しいシーズンとなった。前年に五番を打っていたチャーリー・マニエルを近鉄バファローズに放出し、ベテラン投手・神部年男を獲得した。守備力を重視し、「守り勝つ野球」を標榜していた広岡の意向によるものだったが、チーム内に与えた衝撃は大きかった。
「やっぱり、マニエルあっての大杉さんであり、若松(勉)さんだったと思います。特に四番の大杉さんは、五番にマニエルがいたから、相手投手も気が抜けずにうまく機能していましたから。マニエルが抜けた分、大杉さんへのマークも当然厳しくなる。そうなれば、大杉さんもきついですよ」
さらに杉浦は「いきなり、タガが外れてしまった」と切り出した。
「優勝したことによって、いわゆる《三禁主義》が緩められたんですよ。《三禁》というのは、米食、飲酒、そして門限です。マニエルが抜けたこともそうだけど、《三禁主義》が緩められたことでタガが外れてしまった……。僕はそう考えています」
これまで、本連載で話を聞いてきた八重樫幸雄や水谷新太郎は、「優勝したのに、さらに私生活の締めつけや練習が厳しくなったことで、選手たちの心が離れてしまった」と語っていた。しかし、杉浦はまったく逆の感想を抱いているようだった。
「まだまだ決して強いチームだったわけでもないのに、選手たちの間には“オレたちは強いんだ”という思いが芽生えてしまったんだと思います。僕はお酒を飲まないので誘われることはなかったけど、ついついチヤホヤされて飲み歩いたりする選手もいたはずです」