熱狂とカオス!魅惑の南米直送便BACK NUMBER
PK2度失敗でも「浦和サポは静かだった。ブラジルなら罵声だ(笑)」ワシントンが語る“点取り屋の度胸論”「フクダ、カズは逃げなかった」
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byTomoki Momozono
posted2024/01/22 11:01
2006年、浦和レッズ時代のワシントン
「当時、すでにプロ選手になる夢を抱いていたから、迷わず『行きます』と答えた」
ブラジル中部に位置するブラジリアからカシアス・ド・スルまで、約1900kmの距離がある(注:東京から上海までが1800km弱なので、それより遠い)。気候は熱帯から温帯に変わり、食事もメンタリティーもかなり異なる。ただ、カシアス・ド・スルは母親の出身地で、親戚が住んでいたのは幸いだった。選手寮に入り、地元の高校に通い、チーム練習に参加した。
「このとき初めて、本格的な練習を始めた。トラップ、両足のキック、ドリブル、パス、シュート、ヘディングといった基礎練習を繰り返し、週末、試合でプレーする毎日が始まった」
20~21歳にかけて、大きな試練に見舞われた
17歳になるとトップチームの練習に参加させてもらえるようになり、1993年に18歳で州選手権の試合でデビュー。当時、CFには実績のあるベテランがおり、出場機会は多くなかった。それでも、1995年、州選手権で5得点をあげ、ブラジル3部でも5得点を記録して「将来有望な若手」という評価を受けた。
ところが1996年、本格的にキャリアを切り開こうという20歳から21歳にかけての大事な時期に、大きな試練に相次いで見舞われる。それは大ケガ、さらに糖尿病というものだった。ワシントンは当時の状況について、こう本音を漏らした。
「毎晩、神様に祈りながら完治を願った」
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