プロ野球PRESSBACK NUMBER
《岡田采配はなぜ当たる?》阪神・岡田彰布監督が「無死一、二塁のゲッツーはOK」と語る“納得のワケ”「2死三塁なら次の打者は…」
text by
掛布雅之Masayuki Kakefu
photograph byNanae Suzuki
posted2023/11/04 11:02
阪神・岡田彰布監督が「無死一、二塁のゲッツーはOK」と語る理由は…?
藤川は投球術という面では不器用だった。牽制したりバント処理などは器用だが、打者への攻め方は目いっぱいしかできない。それは球種が少ないからで、長いイニングをかわしたり、遊びながら投げるということができない。1イニング目いっぱいで投げないと持ち味が出ないタイプだ、と岡田は分析していた。
入団した翌年、藤川は一軍に上がり、先発ピッチャーを務めたが、野村監督(1999~2001年)のときも、星野監督(2002~03年)のときも結果を残せなかった。
このころ(2003年)、藤川は一軍と二軍を行ったり来たりしていたが、岡田は「藤川に先発は無理や」という思いを抱いていたという。あるとき岡田は、ウエスタン・リーグ(二軍の公式戦)トーナメント戦の中日戦に藤川を先発させた。
試合前に岡田は、「今日は、先発の最終テストや。完投して投げ切れたら先発に使うけど、アカンかったら、次からお前は中継ぎで、短いイニングしか投げさせられへん」と告げた。
この試合には、たまたま調整か何かで中日の一軍の山﨑武司と大豊泰昭が出場していて、藤川は6回裏に2人にホームランを打たれた。その結果として岡田は、藤川に先発をあきらめさせたという。
リリーフ転向して才能が花開いた藤川
だが、藤川は直球にスピードがあって、短いイニングなら十分活躍できると思い、生かせる道を探って、リリーフに配置転換した。これがのちにJFKとして活躍するきっかけになった。
「藤川は、私以外の人間が一軍監督だったら、2003年の時点で球団から戦力外通知を受けていただろう。解雇リストに藤川の名前があったのを見て驚いた私が、ただちにそれを撤回させたのだ。もしもあのとき阪神が藤川を放出していたら、藤川が高知商高のときから目をつけていた苑田聡彦スカウトのいる広島かヤクルトあたりに拾われていたかもしれないと思うと、ゾッとする」と岡田監督は振り返っている。