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オリックス・山﨑颯一郎が「北陸のダルビッシュ」だった頃…恩師が明かす17歳のターニングポイント「東京から敦賀へ、バスの車中で延々と…」
posted2023/08/13 11:03
text by
酒井俊作Shunsaku Sakai
photograph by
SANKEI SHIMBUN
9年前、敦賀気比を率いる東哲平監督は山﨑颯一郎と出会ったとき、二兎を追うのをやめた。
勝利。育成。
目の前には煌めく逸材がいた。投げる球を見て将来性豊かな才能に心躍ったし、何よりも189cmの長身から投げ下ろす姿に魅了された。彼が入学してきた頃は、名門校の監督に就いて4年目で34歳だった。甲子園に出たい、勝ちたい。高校球児だけでなく、指導者も持つ自然な感情である。しかも血気盛んな青年監督だった。コイツがいれば勝てる――。だが、東は自らの野心よりも大切なことに気づいていた。
「高校野球の監督って、絶対に勝ちたいものなんです。でも、山﨑を見て、僕らの高校野球のなかで終わる選手にすることに疑問がありました。あまり“完成品”にしたくないなと思っていました。高校野球の“完成品”にすればチームはもっと勝てていたかもしれません。だけど、先々、もっと伸びる可能性があると思った選手ですから」
現在はオリックスのセットアッパーとして活躍し、ファンに「吹田の主婦」として愛される山﨑は、高校での3年間が原点になった。大きく育てようとする東の思いは山﨑の投げ方ひとつにも表れていた。
「北陸のダルビッシュ」と呼ばれて
今でこそ球団の日本選手最速160kmを誇る快速球が売りだが、当時は剛腕タイプではなかった。躍動感よりも、体のバランスを重視する静かなマウンドさばきだった。最速は145kmで、平均は130km台。長身の右腕だったこともあり「北陸のダルビッシュ」と呼ばれていた。体躯に恵まれ、素質も高く、もっと力感のある投げ方を追い求めてもよさそうなのに、東はそうしなかった。
「力投型にするのは、体が強くなれば、いつでもできます。まだ、力を出せる体になっていませんでした。ケガをさせたら選手として終わってしまう恐れもありますから」