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「父親が酒浸りになって」一家離散の問題児が“J屈指+ブラジル代表ボランチ”に…サンパイオの逆転人生「ドゥンガは大恩人だ」 

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沢田啓明

沢田啓明Hiroaki Sawada

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photograph byHiroaki Sawada

posted2023/07/30 11:00

「父親が酒浸りになって」一家離散の問題児が“J屈指+ブラジル代表ボランチ”に…サンパイオの逆転人生「ドゥンガは大恩人だ」<Number Web> photograph by Hiroaki Sawada

横浜フリューゲルスなどで名ボランチとして君臨したサンパイオ。彼が歩んだ人生は壮絶そのものだった

「最初の年は、本当に大変だった。サントスFCのアカデミーとサンパウロFCのフットサルチームの練習はどちらも月曜、水曜、金曜の週3回で、サントスFCが朝でサンパウロFCが夜だった。

 両方の練習がある日は朝5時に起き、サントスへ行って練習し、サンパウロへ戻ってから学校へ行き、夜、サンパウロFCでフットサルの練習。家へ帰るのは夜の12時近くで、ヘトヘトになったよ」

クラブ掛け持ちをやめられなかった“金銭面での事情”

――すさまじいスケジュールですね。なぜサンパウロFCのフットサルチームをやめなかったのですか?

「それが、やめるわけにはいかなかったんだ。サンパウロとサントスを往復するにはかなりの交通費(注:現在であれば、往復76レアル=約2300円。週に3回通えば、月に約3万円)がかかり、両親はとても払えない。サントスFCも負担してくれない。ところが、サンパウロFCは裕福で、フットサルチームの主力選手にお小遣いをくれていた。そのお金をサントスまでのバス代に充てた。

 ただ、サンパウロFCとサントスFCはライバルだから、サントスFCのU-15で練習していることはサンパウロFC関係者には内緒にしていたんだ」

――なるほど。それにしても、14~15歳で、よくそれだけハードなスケジュールをこなせましたね。

「体力的にはつらかったけれど『プロ選手になる』という夢に向かって歩き始めることができた喜び、そして『プロ契約をして一家の窮状を救うんだ』という強い願いがあったから頑張れたんだと思う。

 そして翌年、ようやくサントスFCの選手寮に入れてもらえることになり、サンパウロFCのフットサルチームを退団した。サントスへ通うための交通費がいらなくなったからね(笑)」

サントスではヤス、そしてカズと一緒にプレー

――その後、サントスFCのアカデミーでは順調だったのでしょうか?

「選手寮に入ってから、僕の生活はフットボール一色になった。効果はてきめんで、U-15ブラジル代表に選ばれた。

 1985年、17歳でU-20に昇格したんだけど、このとき、日本から来ていたヤス(三浦泰年)と一緒にプレーした。基本技術がしっかりしていて、スタミナもあって、いい選手だった。ただ当時、サントスには優れたボランチが何人もいたから、トップチームに入るのは難しかったんだけどね……。

 この頃、僕の人生にとって非常に重要な出来事があった。チームメイトからバプテスト教会(注:キリスト教プロテスタントの一教派)のミサへ誘われたんだ。牧師さんから『イエス・キリストを信じて、正しい生活を送りなさい』と諭され、それを実践するようになってから人生が一変した。かつての反抗的な面が消え、誠実に人生を歩むことの大切さを知った」

――1986年2月には、当時18歳だったカズ(三浦知良)がサントスへ入団します。

【次ページ】 ドゥンガは僕のキャリア上の大恩人だ

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