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「父親が酒浸りになって」一家離散の問題児が“J屈指+ブラジル代表ボランチ”に…サンパイオの逆転人生「ドゥンガは大恩人だ」 

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沢田啓明

沢田啓明Hiroaki Sawada

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photograph byHiroaki Sawada

posted2023/07/30 11:00

「父親が酒浸りになって」一家離散の問題児が“J屈指+ブラジル代表ボランチ”に…サンパイオの逆転人生「ドゥンガは大恩人だ」<Number Web> photograph by Hiroaki Sawada

横浜フリューゲルスなどで名ボランチとして君臨したサンパイオ。彼が歩んだ人生は壮絶そのものだった

「彼とも、最初、U-20で一緒にプレーした。その後、ほぼ同時期にトップチームへ昇格し、4月のサンパウロ州選手権ジュベントス戦で同時にデビューした。

 ただ、右SBのレギュラーが故障しており、僕はボランチではなく右SBとしてプレーした んだけどね」

――当時のカズをどう思いましたか?

「スピードとテクニックがあり、ドリブルが素晴らしく、両足で同じように蹴れる。1対1の勝負では、ほとんど勝っていた。人間的にも素直で、すぐに仲良くなった」

ドゥンガは僕のキャリア上の大恩人だ

――当時のチームには、ドゥンガがいましたね。

「そう。彼が、僕のキャリア上の大恩人なんだ」

――どういうことですか?

「彼は僕より4歳年上で、同じポジションだ。だから将来、僕は彼の競争相手となるかもしれなかったんだけど、ポジショニング、マークの仕方、攻撃の組み立て方などを丁寧に教えてくれた。1986年末、彼が移籍したので、以後、僕がボランチのレギュラーになった」

――サントスの中心選手となり、1990年10月、セレソンに初招集を受けます。ペレが50歳になったことを記念してミラノで行なわれたセレソン対世界選抜のエキシビション・ゲームでした。

「貧しい家庭に生まれ、4つのクラブのアカデミーの入団テストに落ち続けてプロになれそうになかった男が、誰もが憧れるセレソンに辿り着いた。両親もきょうだい も親族も、みんな涙を流して喜んでくれた。人生で最も困難な時期に一人だけ僕の味方をしてくれた叔母さんも、泣きながら僕を抱き締めてくれた」

――初めてカナリア・イエローのユニフォームをまとってプレーしたときの気持ちは?

「大観衆で埋まった巨大なサン・シーロ・スタジアムで、神様ペレがいるセレソンでプレーし、マルコ・ファン・バステン(オランダ)、ロジェ・ミラ(カメルーン)らが居並ぶ世界選抜と対戦したんだ。夢を見ているみたいだった」

アメリカW杯出場が叶わず、ひどく落胆した

――サントスFCで5年余りプレーした後、1991年、パルメイラスへ移籍。1993年にサンパウロ州選手権とブラジルリーグの二冠を獲得し、あなたはフットボール専門誌によって年間最優秀選手に選ばれます。チームは、1994年にも二冠を手にしました」

「当時のパルメイラスは、イタリアの大企業がスポンサーとなって国内トップクラスの選手を集めた金満チーム。左SBロベルト・カルロス、MFリバウド、FWエジムンドらスーパースターが目白押しで、負ける気がしなかった」

――ただ、セレソンでは1993年のコパ・アメリカに出場したものの、準々決勝で宿敵アルゼンチンに延長、PK戦の末に敗れた。1994年には、W杯前最後の強化試合の後半に出場したが、W杯出場は叶いませんでした。

「クラブでも代表でも好調だっただけに、ひどく落胆した。そろそろ外国へ出たいと考え、当時の世界最高峰だったイタリア・セリエA、あるいはスペインリーグでのプレーを思い描いていたんだ」

 サントスFC、パルメイラスというブラジルのトップクラブで躍動し、セレソンにも招集された26歳のサンパイオは、転機を迎えていた。

#2につづく>

#2に続く
「寝耳に水。悔し涙を流した」“横浜フリューゲルス消滅の舞台ウラ”元ブラジル代表MFサンパイオが激白「奇跡の優勝? 僕はそう思わない」

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