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「握力は計測不能でした」怪力無双・魁皇が語る“相撲嫌い”だった少年時代…『サンクチュアリ』よりも過酷な日々に「えらいところに来てしまった」
text by
飯塚さきSaki Iizuka
photograph byShigeki Yamamoto
posted2023/07/08 11:20
少年時代は“相撲嫌い”だったという元大関・魁皇の浅香山親方。ロングインタビューで「記録にも記憶にも残る名大関」の歩みに迫った
猛稽古を見学して戦慄するも、外堀を埋められ…
――でも空手の道着は燃やされてしまった……。
そう(笑)。ただ、小学4、5年生になってくると、相撲の大会でもある程度結果を出せるようになって。中学でも結局3年間ずっと出たのかな。そこで、のちに入門することになる友綱部屋の後援者に「相撲取りにならないか」と声をかけてもらいました。そのときはなんとも思っていなかったけど、中学3年生になって進路を決めるときに、ほんの冗談のつもりで「ちょっと相撲部屋を見に行ってみたいな」と言ってしまったんです。当時、相撲のことはまったくわからなくても、子ども心に千代の富士関はカッコいいと思って知っていましたからね。
それで、友綱部屋に稽古見学に行きました。大きなお相撲さんたちが引きずり回されて、ボロボロになりながらヒーヒー言っていて……。いま思えば、よくあんなのを子どもに見せるよな、と(笑)。そのときは正直「こんな世界に入りたくない!」という思いしかありませんでした。
――なぜ、そこから入門することになったのでしょうか。
苦しい稽古をしていた人たちが、終わるとみんなニコニコしながら賑やかに話をしているのを見て、「不思議な場所だな」とは思ったんですよ。部屋で食事もさせてもらったんですが、相撲界に入る前なので、それはもう美味しいものを食べさせてもらって。そんな調子で、だんだんと丸め込まれていった形です(笑)。ある日の授業中、担任の先生に呼ばれて、後援者の家で当時の親方と話をしたんです。たしかそこで「来年の3月、春場所のときに迎えに行くから」ということになって、入門が決まったんだと記憶しています。
そこからは毎日がものすごく憂鬱でした……。地元が好きだったし、卒業したら高校へ行って、福岡県のどこかで就職できたらいいな、という感覚しかありませんでしたから。昭和63年(1988年)はたしかうるう年で、「2月29日に迎えに行く」と言われていたと思います。いきなり飛行機に乗せられて、着いたのが大阪の宿舎でした。