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J開幕で大ブーム「ビスマルクのお祈りポーズ」実は日本でやり始めた?「カズはよく僕の家で寝てた(笑)」53歳の今、明かすウラ話
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byTakao Yamada
posted2023/07/02 11:01
ビスマルクと言えばお馴染みの「お祈りポーズ」。実はJリーグに来てからのゴールセレブレーションだった?
「僕は、母と一緒に住んでいたこともあり、夜はほとんど外出しなかった」
――ふたりとも、熱心なキリスト教徒ですよね。
「日本にも、僕が信仰するキリスト教福音派の牧師さんが東京にいることがわかった。そこで、毎週、牧師さんに僕の家へ来てもらって、ブラジル人の選手やスタッフの信者を集めてミサをしてもらった。そして、ミサが終わったら僕の母が作ったブラジル料理や牧師さんが作った料理を楽しんだ。これは、僕にとって非常に大切な時間だった」
――そして、1994年1月、ヴェルディとの期限付き移籍期間が満了します。
「ヴェルディは契約延長を望み、僕もヴェルディでプレーを続けたいと思った。ただ、もしヴェルディと契約を延長して日本に留まると、1994年W杯には出場できなくなりそうだった。
その後、ドゥンガ(元ジュビロ磐田)、ロナウドン(日本での登録名は「ロナウド」。元清水エスパルス)のように日本でプレーしていてもセレソンに招集される選手が出てきたけれど、当時はブラジルではJリーグがあまり注目されておらず、セレソンに招集されるには欧州かブラジル国内でプレーしている必要があった。かなり悩んだけれど、日本で幸福な毎日を送れているのだから、仮にW杯に出場できなくても悔いはない、と思った。バスコから自分のパス(所有権)を買い取り、ヴェルディと3年契約を結んだ。僕のキャリアにおいて、非常に大きな決断だった」
ヴェルディとの別れは、突然だった
――1993年に続き、1994年もJリーグとナビスコ杯の二冠を達成。個人としても、1994年から2年連続でリーグのベストイレブンに選ばれた。
「自分自身、とても良いプレーができたと思っている」
――ところが、ヴェルディとの契約が満了する1996年、クラブの財政難が明らかになります。
「大勢の選手がクラブから年俸のダウン提示を受けており、クラブの財政が逼迫していることは僕も気付いていた。そして、僕もプレー内容がよかったにもかかわらず、大幅ダウンの提示を受けた。「僕の方が『これくらいのダウンであれば、受け入れます』と言っても反応がなかった。これには驚いたと同時に、ショックを受けた。クラブを愛しており、クラブのため常にベストを尽くしてきた、という自負があったからね」
こうして、3シーズン半の間にJリーグとナビスコカップを2度ずつ(いずれも1993年と1994年)、天皇杯を1度(1996年)、計5個のタイトルを獲得した男が、ヴェルディを去ることを決意した。
<#3につづく>
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