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ビスマルク「日本人に魅了されて(優勝した)W杯を諦めた」 Jで輝き、引退後も敏腕代理人になれたワケ〈日本vsブラジル初対決で決勝点〉
posted2022/06/07 06:00
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph by
Koji Asakura
2月のリオは真夏だ。早朝から強い日差しが照りつける。彼との待ち合わせ場所は、ボサノバの名曲「イパネマの娘」が生まれたイパネマ地区の西にあるレブロン地区のカフェ。現役時代と比べると別人のようにふくよかになり、両頬が丸く盛り上がった彼が現れた。だが、その柔和な笑顔には、確かに昔の面影があった。
ビスマルクはリオ北部で生まれ育った。憧れの選手はジーコ。14歳から地元の名門ヴァスコ・ダ・ガマのU-15に加わり16歳でトップデビュー、夢だったセレソン(ブラジル代表)に18歳で初招集された。1990年のW杯イタリア大会に参加し、当然ながら'94年のアメリカ大会も狙っていた。だが、今まさに大輪の花を咲かせようとしていた23歳の若者は、突如、誕生したばかりの極東のリーグへ参戦する。このニュースは、世界のサッカー関係者を驚かせた。
「当時、僕には3つの選択肢があった。それにヴァスコには5年以上いたから別のクラブで新たな経験を積むべき時期が来たと感じていたんだ。でも、話があったサンパウロやセルタ(スペイン)とは契約がまとまらなかった。残ったオプションがヴェルディだったんだよ。
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Jリーグに関する知識はほとんどなく、日本へ行く気も全くなかった。そんな時に、ヴェルディのフィジカルコーチを務めていたルイス・フラビオから電話があった。『今のヴェルディには、君のようにリズムを変えることができる選手が必要だ』、『君には日本の生活が性に合う。ヴェルディへ来い』って執拗に誘われたんだ。彼をとても信頼していたし、2つのオプションも消えた。だから『日本へ行くのは、神様の思し召しなのだろう』と考えたんだ」
当初は半年で戻る予定だった
ここで、大きな疑問がある。当時の彼は将来を嘱望された若手で、ほんの少し待てば欧州へ渡るチャンスはいくらでもあったはずだ。W杯アメリカ大会開幕まで1年を切ったこの時期に日本へ行くことは、熱望していたW杯出場の夢を遠ざけるとは考えなかったのだろうか。
「そのことは、もちろん考えたよ。でも当初は完全移籍ではなく、6カ月の期限付き移籍だった。期限が来る'94年1月にはブラジルへ戻る。そこからW杯までは半年近くあるわけだから、登録メンバー入りは可能と踏んだんだ」