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J開幕で大ブーム「ビスマルクのお祈りポーズ」実は日本でやり始めた?「カズはよく僕の家で寝てた(笑)」53歳の今、明かすウラ話
posted2023/07/02 11:01
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph by
Takao Yamada
20歳にして1990年ワールドカップ(W杯)に招集されたフットボール王国の逸材が、23歳で迎えた1993年の夏、Jリーグが開幕して間もない日本へ渡った。このことは、日本のフットボール関係者以上に、母国ブラジルのフットボール関係者、メディアとファンを驚かせた。
実はセルタに移籍するはずだったが…
――1993年7月、ヴェルディ川崎へ移籍したわけですが、その前に別のクラブからもオファーがあったそうですね。
「1991年にバスコダガマ(以下、バスコ)の首脳陣との間で軋轢があり、別のクラブへ移るべき時期だと考えていたところ、セルタ(スペイン)とサンパウロFCからオファーがあった。
セルタは、現地まで行ってスタジアムやクラブの施設を視察した。バスコとセルタが移籍金額で合意し、僕とも条件面で折り合った。ところが、契約書にサインする段階になって、先方が『年俸として提示した金額は税別と伝えていたが、税込みにしてくれないか』と言い出した。所得税は50%だったから、手取りが半額になる。金額もさることながら、不信感を抱いた。
一方、サンパウロFCは名将テレ・サンターナ(注:1982年と1986年のW杯でセレソンの監督を務め、1992年と93年、サンパウロFCを率いてクラブ世界一)が指揮する強力なチームだった。しかし、クラブの首脳が『お金を貸与するから、パス(所有権)を自分でバスコから買い取り、それを我々へ転売する形で移籍してくれ』と言われた。そうすれば移籍金を低くできる、という計算だった。でも、僕は8歳のときからずっとバスコにいた人間だ。首脳陣と軋轢があったとはいえ、そんな姑息なやり方で退団したくなかった」
君は真面目で几帳面だから、日本での生活がきっと合う
――ヴェルディからは、どのような形でオファーを受けたのですか?
「この年の6月頃、ヴェルディのフィジカルコーチを務めていたルイス・フラビオから電話がかかってきて、『チームには、君のようにリズムを変えられる選手が必要なんだ』、『君は真面目で几帳面だから、日本での生活がきっと合う』と誘われた。
彼のことは良く知っており、信頼していた。また、セルタとサンパウロFCへの移籍に暗雲が垂れ込めたこともあって『日本へ渡ってヴェルディでプレーすることは、神様の思し召しなのではないか』と考えた。
でも、僕は1994年のW杯に出場して優勝したかった(注:実際に、セレソンはこの大会で優勝する)。そのためには、遅くても1994年の前半はブラジルのクラブでプレーしないと招集が難しくなる。だから、ヴェルディへの移籍期間を(1993年7月から1994年1月までの)7カ月間としてもらった」
――ヴェルディについては、どんなことを聞いていましたか?