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バレーボールPRESSBACK NUMBER
“お前の時代が始まるな”…18歳イケイケ西田有志を優しく見守った藤井直伸「藤井さんと一緒じゃなかったら、今の僕はいない」
text by
田中夕子Yuko Tanaka
photograph byAFLO
posted2023/04/21 11:04
18歳で日本代表に初招集され、鮮烈デビューを飾った西田有志。当時コンビを組んだ藤井直伸のトスで世界が広がった(写真は19年ネーションズリーグ)
年齢は8歳違いだが、最初からウマが合った。ネーションズリーグ以降も同部屋になることが多く、海外遠征では時間がある時にはいつも一緒にいた。ケバブを食べながらいろいろな話をして、国内でも合宿中の休日はカラオケに出かけたり。「とにかく楽しい思い出しかない」と振り返るが、それ以上に色濃く残るのは、藤井がバレーボールに向き合う姿勢そのものだった。
「人懐っこくて、誰とでも仲良くなるのはもちろんですけど、誰よりも研究熱心でした。うまくいかないとずーっとデータや映像を見返して、毎日ノートに書きこんで。学生がやるような基本練習も、誰より一生懸命、いつまでだってやり続ける。当時の僕はまだ子供だったから、そういう藤井さんの横で菓子ばっか食って『藤井さん毎日何やってるんすか』って言うだけ(笑)。でもいつだって、藤井さんが努力する姿を近くで見てきた。誰よりもバレーボールが大好きで、バレーボールと一生懸命向き合う。そんな藤井さんが大好きでした」
イタリア移籍後も頻繁に連絡
18年の世界選手権、19年のワールドカップでも共にプレーし、21年の東京五輪でも日本代表として戦った。3年後のパリ五輪へ向け、西田はさらなるレベルアップを求めて同年9月に渡欧し、イタリア・セリエAのビーボ・バレンティアでプレーした。Vリーグの試合もチェックを欠かさず、ジェイテクトのチームメイトや日本代表の選手たちと事あるごとに連絡を取り合う。中でも、最も頻繁だったのが藤井だった。
最初は調子の良し悪しやチームの状況、日本にいる頃と変わらぬやり取りをしていた。しかし、12月の天皇杯を終えて年が明けると間もなく、藤井の欠場が続く。様子を聞くと「目の調子が悪い」と伝えられたが、想像を絶する報せを受けたのは、22年2月の後半に差し掛かる頃だ。
「胃がんで、ステージ4だってわかったんだよね」
言葉が出なかった。
え? がん? 何で藤井さんが? 目が見えづらいだけじゃないの? ステージ4って何だよ。
現実が受け止められず、自分が泣いちゃダメだと思いながらも涙が出て仕方なかった。