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近鉄の伝説的バッターはなぜ“大金を貸し続けた”のか? 「300万貸したヤツがベンチの真上に…」豪快エピソードに隠された“栗橋茂の真実”
posted2023/02/14 11:01
text by
岡野誠Makoto Okano
photograph by
NumberWeb
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「俺、あれからおかしくなったんだよね」
1985年、岡本伊三美監督は兼ねてからの構想を実現させる。前年までクリーンアップを打っていた栗橋茂を2番に持ってきたのだ。
「岡本さんは2番最強説だった。キャンプの時から打診されていたんだけど、ずっと嫌だと言っていた。2番だったら8番のほうがいい。西本監督に2番を打たされた時、打順を考えてボールを見極めていたの。そしたら、『2番みたいなことやってんじゃない!』って怒られた。俺はずっとクリーンアップを目指してやってきたし、西本さんもそう育ててくれた。だから、なんか恥ずかしかった。2番はバントというイメージがあったから、自分からバントしたこともあった」
他球団を見渡せば、2番には小技の効く選手が揃っていた。この年、西武は金森栄治、ロッテは横田真之、阪急は弓岡敬二郎、日本ハムは高代延博、南海はジェフ・ドイルが主に務めていた。彼らの犠打数は弓岡の46を筆頭に全て2ケタを記録した。その時代に、岡本監督は前年のオールスターの全パの5番を据えた。インパクトのある起用だったが、栗橋は『2番』の呪縛に囚われた。
「1番の大石(大二郎)が塁に出ると、俺は走るまで待った。なかなか動かないから、ベンチに帰って『走れよ、おまえ』と言うと、『打っていいですよ』と返される。よく言い合いしてたよ。2番が合わないの」
豪快な打撃を狂わせた「優しさ」
4番は唯我独尊に振る舞えるが、2番は周囲に気を遣わなければならない。それまでグラウンドでは隠していた優しさが顔を見せた時、打撃が狂った。振り返れば学生時代、父親が病魔に倒れた栗橋は家計を助けるため、中学2年から高校卒業まで毎朝5時に起きてヤクルトを配達していた。余計な心配を掛けないため、帝京商工野球部の若色道夫監督にはその事実を隠していた。