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セリエA ダイレクト・レポートBACK NUMBER
〈58歳で死去〉「正直に言いますが、妻の前で何度も涙を流しましたよ」イタリア異端の名FWが膵臓がんを「長い旅路の伴侶」と呼んだ理由
text by
弓削高志Takashi Yuge
photograph byAlessandro Sabattini/Getty Images
posted2023/01/13 11:01
95-96シーズン、CL制覇したユベントス時代のビアッリ。デシャン(右から2人目)らと共闘してつかんだ欧州の頂点だった
当時の一般的な同業者に比べると言動に野卑なところや嫌味がなく、品のある人物と見なされていた。彼は、戦後復興を遂げたイタリアの“新人類”世代の代表であり、グラウンドの外では衆目を集める“ポップ・スター”でもあったのだ。
マンチーニ「また1人兄弟が逝ってしまった」
盟友マンチーニの追悼メッセージには胸が詰まる。
「つい先頃、シニシャ(・ミハイロビッチ)という兄弟を失ったばかりだというのに、また1人兄弟が逝ってしまった。私と彼が知り合ったのは16歳のときだ。それ以来、ずっと同じ人生を歩んできた」
18年、イタリア代表監督に就いた親友マンチーニから「力を貸してくれ」と請われたビアッリは、代表チーム団長という責任ある大役を引き受けた。病身であることは互いに百も承知の上だった。
かつての黄金コンビは、選手全員やスタッフが兄弟や家族のように固く結ばれた、いつかのサンプドリアのようなチームを作り上げると、21年の夏、因縁の舞台ウェンブリーに到達し、欧州制覇という29年前の夢のリベンジを見事果たした。
がん宣告された瞬間の一言「それで?」
医師から膵臓がんを宣告されたとき、ビアッリは「それで?」と聞き返したという。続けて「手術はいつになります? 化学療法や放射線治療のスケジュールは?」と淡々と畳みかけた。
長く続いた現役時代の間に、身体の不具合に対しては速やかに事務的かつ合理的に対応するのが最適だと考える癖がついていた。
「ところが、時間が経つにつれ事の重大さを理解し、1人の親や子として苦しみました。正直に言いますが、妻の前で何度も涙をこぼしましたよ。92年にチャンピオンズカップ優勝をあと一歩で逃したとき、恩師ボスコフは『試合に負けても真の男は泣かないものだ』と彼なりに慰めてくれました。ですが、私はその言葉に反論しました。前を向くためには、泣いて悲しみを出し切ってしまう方がいい。人生のうち運命で決まっているのは10%。残りの90%は、自分自身の知恵や勇気、意志によって変えられると私は考えているのです」
ビアッリは最後までサッカーの現場が恋しかったのでは、と思う。
経営の窮状が続く古巣サンプドリアを救うべく、自ら有望な投資グループを見つけて具体的買収交渉に動いたのが19年秋だった。曲者のオーナー会長マッシモ・フェッレーロが強欲に値段を吊り上げたため交渉は流れた。
フェッレーロは21年冬に粉飾決算容疑で逮捕され会長を辞任したが、なお実質的なオーナーとしてのさばっている。ビアッリが亡くなる前日には、買収の下交渉を続けてきたルクセンブルクの投資ファンドがフェッレーロ側の煮え切らない態度に呆れて撤退した。