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セリエA ダイレクト・レポートBACK NUMBER
〈58歳で死去〉「正直に言いますが、妻の前で何度も涙を流しましたよ」イタリア異端の名FWが膵臓がんを「長い旅路の伴侶」と呼んだ理由
text by
弓削高志Takashi Yuge
photograph byAlessandro Sabattini/Getty Images
posted2023/01/13 11:01
95-96シーズン、CL制覇したユベントス時代のビアッリ。デシャン(右から2人目)らと共闘してつかんだ欧州の頂点だった
聖地ウェンブリー・スタジアムで臨んだバルセロナとの決戦では、0-0で迎えた延長後半に相手DFロナルド・クーマンの一発に涙を飲んだ。
92年夏に移籍したユベントスでは円熟のリーダーシップを発揮し、主将として95-96年のUEFAチャンピオンズリーグ優勝に貢献。胸元に“SONY”と白抜きされた青いユニフォーム姿のビアッリが白銀に輝く優勝トロフィーを高々と掲げる姿を目に焼き付けているユベンティーノも数多いだろう。
96年の夏にフリーとなり、32歳にしてプレミアリーグ挑戦を決意するとチェルシーに入団した。
ロンドンでの2シーズン目、98年2月に不仲だった選手兼監督のルート・フリットが解任されると、彼の後釜としてプレイング・マネージャーに就任。英国流フットボールに順応したビアッリは、チェルシーにリーグ杯とカップウィナーズカップの2冠をもたらした。
翌99年に現役を完全引退し、監督業に専念後もFAカップ(00年)などを戴冠。ただし、02年に解任されたワトフォードを最後に指導者としてのキャリアには区切りをつけ、母国イタリアに戻るとTV解説者へと腰を落ち着けた。
マンチーニ、バッジョ、デルピエロ、ゾラの相棒として
長いキャリアの中で最高のアシストマンは誰だったか? 後年、『ガゼッタ・デッロ・スポルト』のインタビューで問われたビアッリの答えはこうだ。
「マンチーニ、ロベルト・バッジョ、アレッサンドロ・デルピエロ、それからジャンフランコ・ゾラ……彼ら偉大な“10番”たちのパスを受けられた私は幸運な男だった。まあ、走って受ける能力に関しては、私の方が彼らより上だったともいえるね(笑)」
サッカー選手としてのビアッリは敵にすれば恐ろしい点取り屋で、味方であれば頼もしいことこの上ないリーダーだった。だが、いち個人としてのジャンルカ・ビアッリは、自由闊達を尊び、粋を愛する精神の若人だった。
サンプ時代には当時のディスコ文化の象徴アフロヘアを好み、左耳にピアスの穴を開け、自動車王国イタリアでは珍しい“アメ車”キャデラックを乗り回した。
「自分はプロのサッカー選手だという自覚は当然持っていた。その上で同じ年代の若者のように気の向くまま生きる自由を感じたかった。決まりきった枠から外れても、一人の人間として自由でありたかった」
衆目を集める“ポップ・スター”でもあった
北部イタリアの裕福な家庭に5人兄弟の末っ子として生まれた彼は、生活苦とは無縁でひたすら純粋にサッカーの世界に没頭することができた。“実家が太かった”からこそ学業に未練はなく、あっさり16歳でプロの世界に飛び込むことができた。
やわなノンポリとは少し異なる。サンプ在籍時の87年には、期間限定ながら当時イタリア国民に課されていた兵役にも就いた。兵役期間中には、地元開催された軍事教練世界大会サッカー競技部門(つまり“軍隊チームによるワールドカップ”)にイタリア代表として出場、見事金メダルを獲得している。
とかくライバル意識が強く、ファン同士がいがみ合うイタリアにあって、ビアッリは応援するクラブの垣根を越えて年齢や男女を問わず支持された。