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アントニオ猪木は「とてつもなく大きな岩」だった…藤波辰爾68歳がリングに上がり続ける理由「猪木さんが旅立って、逆に引けなくなった」
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2022/11/20 17:07
68歳になっても現役を続ける藤波辰爾。12月1日の棚橋弘至とのシングルマッチに向けて、アントニオ猪木から受け継いだ闘魂を燃やしている
「そうそう、猪木さんに話が戻っちゃいますが、猪木さんがカラオケで歌っていた『木蘭の涙』、今度、歌おうかな。あれ、いい歌ですよね。猪木さんは軍歌とか、タイガーマスクとか、君が代も歌っていましたね。採点機能までつけて。カラオケで君が代ですからね、怖いですよ(笑)」
変化した猪木との関係性「試合前に突然、殴られて…」
改めて、藤波はドラゴンブーム全盛期の心境を語った。
「ニューヨークの後は、ジュニア・ヘビー級を盛り上げて、残していかなくてはいけないから、とても有頂天になれる状況じゃなかった。ブレイク感? そんなの全くないですよ。リングでは孤独だから、いつこれが崩れ落ちるか、という危機感がありました。遠征先でファンが待っている。駅や会場はもちろん、旅館でも。いい気分だけれど、反面、その裏返しが怖かったですよ」
スターダムを駆け上る弟子の姿に、アントニオ猪木は何を思っていたのだろうか。
「プロモーターとしての猪木さんは、団体が盛り上がるからOKでしょうけれど、レスラーとしての猪木さんは『この野郎、有頂天になって、うぬぼれやがって』と思っていたでしょうね。試合前に突然、思いっきり殴られて、頭から血を流して入場したこともあった。付き人で、ジュニアで売り出し中の僕を殴るんだから、周りには一番効果があったでしょうね」
そう、猪木は何をするかわからないのだ。
「猪木さんはよく控室のドアの隙間から試合を見ていて、つまらない試合をすると、リングまで飛んできた。乱入、通り魔ですよ(笑)。新日本にはいつもピリピリしたムードが漂っていました」
藤波は1988年4月、後に飛龍革命と呼ばれることになるアクションを起こす。
「わかってほしい、という思いでした。説明不足で通じなかったんでしょうが、自分がトップを取って、メインイベントをやりながら考えたんです。地方のプロモーターもテレビ局も、結局は猪木さんありき。当たり前なんだけれど、海外からくるトップ選手と猪木さんがぶつかる。我々がいるんだから、任せてほしいという気持ちがあった。そのぶん、少しでも猪木さんが欠場することができたり、休めるんじゃないかと……。沖縄で、猪木さんをこの左手で張ってね。張ってから『これでオレの新日本プロレスも終わったな』と思った」