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嘲笑された柔道金メダリスト、元横綱もファンに見放され…なぜ他競技からの“プロレス転向”は難しいのか? 失敗から考えるウルフアロン「成功のカギ」
posted2025/07/06 17:04

新日本プロレス入団を発表した柔道金メダリストのウルフアロン。過去には多くの“転向組”がプロレスへの適応に苦労した
text by

布施鋼治Koji Fuse
photograph by
Asami Enomoto/JMPA
プロレスファンに嘲笑された“金メダリストの黒歴史”
東京五輪柔道男子100kg級優勝という金看板を背に、プロレス界に身を投じたウルフアロンの決断が話題を呼んでいる。
海外に目を向けると、大物柔道家がプロレスに転向したケースはいくつかある。
その第1号は1964年の東京五輪で金メダルを獲得したアントン・ヘーシンク(オランダ)だろう。柔道が五輪種目として初めて採用された地元大会で、日本代表の神永昭夫が袈裟固で敗れた決勝は衝撃だった。まだ柔道は「無差別級こそがすべて」と思われ、「日本代表が海外の代表に負けるわけなどない」と信じられていた時代だったのだ。この日、日本柔道の“最強神話”は木っ端みじんに崩れた。
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1973年、ヘーシンクは日本テレビと契約する形で全日本プロレスに入団。プロレスラーとしての第一歩を踏み出すことになる。試合開始のゴングが鳴ると「さあ、かかってこい」といわんばかりに両手を高々と上げるポーズがトレードマークだった。
しかし、キャリアを積み重ねてもプロレスラーとしてのスキルはさっぱり上がらず、ジャイアント馬場を困惑させた。対戦相手の技を受けることや、試合中に喜怒哀楽を表現するのが大の苦手だったのだ。ヘーシンクのために組んだ柔道ジャケットマッチも投げ以外は見せ場がないばかりか、相手の外国人レスラーが柔道の帯の締め方がわからず場内から笑いが漏れるなど散々だった。
結局、柔道史には確固たる足跡を残しながら、プロレス界には何も残すことができなかった。ヘーシンクにとってもプロレス転向は“黒歴史”だったのではないか。
馬場とヘーシンクが大晦日に…早すぎたメガマッチ構想
ヘーシンクにはそれ以前にも幻のプロデビュー案があった。時期はハッキリしないが、日本プロレス黄金時代の話というから、1960年代後半から1970年初頭と推測される。ある年の大晦日、日本テレビのゴールデンタイムでヘーシンクを馬場と対戦させ、NHKの紅白歌合戦にぶつけるという企画が持ち上がったというのだ。