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「正直、勝たなくていいと思ってました」PL学園のKKに憧れたライバル投手が明かす33年越しの本音「こいつからは逃げたくないって…」
posted2022/08/21 17:25
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph by
Masanori Tagami
『清原和博への告白 甲子園13本塁打の真実』(鈴木忠平著/文春文庫)より一部抜粋してお届けします。(全3回の1回目/#2、#3を読む)
田上昌徳はレフトにいた。そこで歌を口ずさんでいた。
1985年8月21日、全国高校野球選手権大会決勝、宇部商の背番号「1」が向かったのは黒土のマウンドではなく、緑芝の上だった。そして、背後から聞こえるブラスバンドに合わせ、口にしていたのはPL学園の応援歌だった。
「追い求めていたところに、やっとたどり着いたのに、投げられない。正直、勝たなくていいと思っていましたから」
清原和博と桑田真澄のKKコンビが迎えた最後の夏、PL学園は凄まじい執念と強さで決勝にやってきた。「阪神タイガースよりも強い」と言われたプロ予備軍に挑んだのは、地元の選手だけで勝ち抜いてきた山口の県立校、宇部商だった。
群馬県の御巣鷹山に日航ジャンボ機が墜落し、520人が犠牲になってから10日が過ぎようとしていた、あの日。生命の躍動を求める人たちが聖地を埋めた。高校球児にとって、これまでのすべてを純化してくれる最高の舞台だった。
ただ、田上は違った。勝敗とは別に、唯一、自分だけが望むものがあった。相手の4番、清原と勝負するマウンド。それだけだった。そこに立てないことがエースの心をくしゃくしゃにしていた。
同世代のライバルであり、憧れの存在
田上が清原について真っ先に思い出すのは真っ白な練習着姿だ。夏の決勝から遡ること3カ月、宇部商の選手たちは大阪・富田林のPL学園グラウンドにいた。
両校はその年の春、選抜の2回戦で対決し、宇部商は2−6で敗れていた。
「全国制覇するためには、PLの練習を見ておかなければならない」
監督の玉国光男は、そう決意すると、5月に練習試合を申し込んだ。山口からバスに乗って大阪へ遠征したのだ。
だが、当日、激しい雨のため試合は中止となった。仕方なく、それぞれ、室内練習場で汗を流した後、PLの監督・中村順司が両校の選手たちに言った。
「せっかくの機会だから、交流しなさい」
これを聞いて、田上は胸を躍らせた。小学生の頃、PL学園が初めて全国制覇するのをテレビで見た。胸のお守りを握る。すると、祈りが通じるかのように奇跡の逆転劇で勝ち進んでいく。その姿に憧れた。