「満員やけど、スタンドにいてるわ」

　そう声をかけると、表情を変えず、ひと呼吸置いて“合言葉”を返してきた。

「じゃあ、バックスクリーンね」

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　スタンドは満員どころの騒ぎではなかった。無料の外野席は通路や階段も人で埋め尽くされ、まさしく立錐の余地もない状態。1階の入り口から入って人の波をかきわけて、階段に座り込んでいる人を踏ん付けないように気をつけながら1段ずつ上がっていく。左右に延びる通路を少しでもバックスクリーンに近づこうと歩いたが、とうとう右中間中段付近で行く手を阻まれた。みんなゴジラ目当ての観客だろう。巨大な甲子園の外野席からでは、打席の選手は豆粒ほどにしか映らない。しかし、ホームランボールが飛んでくるのは外野席のみ。その瞬間を求める群衆が外野スタンドを埋め尽くしていた。

試合中に思い出した「いつか王さんを超えたい」という夢

　さあ試合が始まった。松井が1打席目、2打席目と歩かされ、「あーあ」と周辺からは大きなため息が漏れた。松井のホームランを目に焼き付けたくて詰めかけたファンにしたら、バットを振ってもらわないことには話にならない。

　あの日の甲子園も暑かった。ただ、ひとたび動けば観戦場所を失うからトイレにも行けない。ノドも渇いた。甲子園名物かちわり氷でも売りに来たらどれだけ助かるだろう。

　だが、皮肉なことに、観客が多すぎて売り子がスタンドの奥まで入って来られない。当時は1袋160円で、売り子は基本給1600円のほか売り上げの1割を報酬として得る。記者としてなまじ知識があるばかりに「せっかくの稼ぎ時なのに、アルバイトの高校生たちかわいそうやな」と考えたりしながら、次の打席を待った。この時はそんな呑気なことを想像してしまうほど、松井の3打席目、4打席目、そして5打席目にも同じことが起きるなんて思ってもいなかった。

敬遠策を取られ、一塁に向かう松井　©SPORT NIPPON

　5回表1死一塁、敬遠。7回表2死走者なし、敬遠。9回表2死三塁、敬遠……。ため息はやがて怒りを帯びるようになり、「勝負せんかい」という怒声まで聞こえるようになった。敵味方の区別なく拍手を送る高校野球ファンがこんなに怒るんだと肌で知った。

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