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最強軍団・大阪桐蔭にもこんな時代が…02年夏の“初戦敗退”から西谷野球は何が変わったのか?「先生は悔しかったでしょうね」
 

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日比野恭三

日比野恭三Kyozo Hibino

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posted2022/08/10 06:01

最強軍団・大阪桐蔭にもこんな時代が…02年夏の“初戦敗退”から西谷野球は何が変わったのか?「先生は悔しかったでしょうね」<Number Web> photograph by KYODO

1991年夏の甲子園で沖縄水産を破り、初出場初優勝を成し遂げた大阪桐蔭。しかしここから足踏みが続き、2002年夏まで出場が遠のいた

 西谷、長澤、西谷という監督交代を選手の立場から見ていた三島は言う。

「西谷先生は、どうやったら甲子園に出られるんだって考えた結果、ぼくらの代にはもっと力が必要だという思いに行きついたのかもしれません。『お前たちには申し訳ないけど、下級生も積極的に起用したい』といったような話をされてましたから」

 まさかの敗北とまさかの甲子園出場を目の当たりにした西谷は、より確実な勝利を求め、より強力な「個」を求めるようになったのではないか。それまで近畿にとどまっていたスカウト網は西へ東へ伸び、やがて全国へと広がった。長澤は言う。

「もちろん練習の中身も濃くなってます。あとは素材ですわ。やっぱり、いい素材を集めてしっかり野球を教えたいという気持ちになったんでしょう」

 91年の初優勝はもとより、02年に久々に甲子園に出られたことは大阪桐蔭の名に力を与え、その後のスカウティングにおいても効力を発揮したに違いない。

 夏の初黒星は、08年以降6度の全国制覇を成し遂げる最強チーム組成の端緒となったのだ。

「勝つというより負けない。7点8点取っても、最後の最後まで気を抜かない」

 長澤は「それが西谷野球」と評した。

 西谷が率い始めた02年秋以降、大阪桐蔭は春夏合計16度の甲子園出場を果たしているが、初戦に負けたことは一度もない。

●初出:Number958号(2018年8月2日発売)『常勝軍団の知られざる挫折 関西の雄が初めて泣いた夏』より 

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「おう!また負けに来たんか」名将・高嶋仁を“勝負師”に変えた甲子園のヤジ…智弁和歌山が“初めて負けた夏”から積み重ねてきたこと

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