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[連続インタビュー]名将が球児だったころ――中井哲之「くそ生意気やったけど、性根が違った」
posted2022/08/05 07:00
text by
元永知宏Tomohiro Motonaga
photograph by
Hiromi Ishii
「高校生は、たったひとつのプレーで変わる」自らも春夏甲子園に出場し、母校の監督として30年以上指揮を執る彼には、高校時代の忘れ難いシーンがある。勝利より重要で、得難いものを知った当時の記憶を語る。
中井哲之が広陵に入学する頃、1973年夏の甲子園を制した広島商業、1976年春のセンバツで初優勝を飾った崇徳高校の後塵を拝し、低迷期にあった。3年生となった1980年に春夏の甲子園に出られたのは、「もし甲子園に出られんかったら、ここでの生活は何じゃったんじゃろう」という強い思いがあったからだ。中井は、当時最も印象に残ったシーンとして意外なプレーを挙げた。
あの頃、高校野球の強豪には、監督が課す猛練習と暴力的な指導、厳しすぎる上下関係が付きものだった。
「100人以上いた新入部員が最後には13人になりました。これ以上やめられたら困ると思って、みんなが嫌がることを率先してやりました」と中井は語る。
寮の起床時間になると同級生を起こし、グラウンド整備に走る。練習が終わればまたグラウンド整備、道具の片づけ、洗濯などのさまざまな雑用……。
「広陵に限らず、野球部には理不尽なルールやしきたりがあって、従えない選手は部を去らなくちゃいけない、そんな時代。子どもながらに『おかしいのう』と思っていました。いい選手がたくさんやめていきましたよ。ただ、僕は逃げるとか、やめるとか考えたことがなかった。『中井はくそ生意気やったけど、性根が違った』と当時の先輩には今でもよう言われますよ(笑)」