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低迷する名門・早稲田の競走部…それでも監督交代が“降格”ではない理由 新旧監督が目指す「2人で“令和版”の強くて魅力ある早大へ」 

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和田悟志

和田悟志Satoshi Wada

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posted2022/06/08 17:00

低迷する名門・早稲田の競走部…それでも監督交代が“降格”ではない理由 新旧監督が目指す「2人で“令和版”の強くて魅力ある早大へ」<Number Web> photograph by Satoshi Wada

6月1日、早稲田大学駅伝チームの新体制がスタートした

「当時、連絡ツールは主にメールでしたが、1週間の練習メニューを花田さんに出してもらい、練習が終わると、その都度、報告を送って、コメントをもらっていました。週に5、6回ぐらいはメールのやりとりをしていたと思います」

 相楽にとって、花田はオンラインのコーチでもあったのだ。

 一方で、花田は現役を引退すると、2004年に上武大の監督に就任する。箱根駅伝の出場実績もなく、スカウティングには苦労も伴っており、選手勧誘で福島に行った際には、相楽の案内で学校を回り、先生を紹介してもらっていた。

 持ちつ持たれつ、両者の良好な関係は続いていた。

「上武の監督1年目はコーチもいなかったので、“ちょっと手伝ってもらえないか”と相楽君に頼んで、夏合宿に来てもらったこともありました」

 本来は、その夏合宿で相楽はプレイングコーチとして練習を引っ張るはずだったが、初日に故障してしまう。それでも、栄養講習を開いたり、高校教諭の立場から生活面のアドバイスを送ったりして、大学生と向き合った。

「彼は真面目ですし、すごく良い知識を持っていました。私にないものを持っていて、すごく緻密なところがあるんですよね。私も割といろいろなデータを駆使するのは好きなんですけど、感覚的な部分も多いので……。その点で、相楽君はちゃんと研究してデータ分析をしているんです。意外に、手書きだったりと、アナログなところもありますけどね(笑)」

上武時代、花田が相楽にオファーも 固辞した“2つの理由”

 花田が、相楽にコーチ就任をオファーしたのは自然な流れだった。

 ただ、相楽には即決できない理由があった。1つは、「教員志望だったし、自分が大学のコーチなんてできるのか不安があった」ということ。もう1つは、低迷していた母校が気がかりだったからだ。当時の早稲田は、箱根駅伝の総合優勝はおろか、シード権からも遠ざかっていた。

「母校がこういう状態の時に、他の大学で指導者をやるという気にはなかなかなれませんでした」

 その低迷期の始まりとなったのが、相楽が4年時の箱根駅伝にあった。自身はケガで走れず、チームは15位に沈み、主将として、卒業後も自責の念に駆られていた。だからこそ、関東インカレや箱根駅伝など大きな大会の際には、「シードを取るまでは、毎年サポートを続けよう」と決めており、福島から現地に足を運んでいた。それがきっかけで、駅伝監督に就任したばかりの渡辺康幸氏からもコーチ就任を打診された。

 花田としては、自分の下でコーチをしてほしい気持ちもやまやまだっただろう。だが、こんな言葉を、迷っている相楽にかけていた。

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