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サッカー日本代表PRESSBACK NUMBER
稲本潤一はアーセナルのことをよく知らなかった? 超冒険的な移籍のウラ側「なんとかなるやろう、と。いざ行ったら面食らいました」
text by
寺野典子Noriko Terano
photograph byNaoya Sanuki
posted2022/06/02 11:05
2001年、稲本潤一はアーセン・ベンゲル監督に見込まれアーセナルに移籍。ベルカンプ、アンリ、ピレスら超一流選手の凄みを肌で知ることになった
「正直、アーセナルのことをよく知らなかったんです(笑)。あまりヨーロッパのサッカーを見ていなかったんですよ。トルシエさんの代表ではフランスと試合をすることが多かったので、(ティエリ・)アンリや(ロベール・)ピレス、(パトリック・)ビエラとか、アーセナルの選手がいることは知ってはいたけれど、『なんとかなるやろう』という気持ちもありました。だからオファーが来て、ほぼ迷うことなくアーセナル行きを決断しました。
2002年だけじゃなくて、その先のことも考えてはいたし、ここでアーセナルへ行かない選択をするのは正直もったいないなと。トルシエさんとの信頼関係は僕なりに築けていると思っていたので、代表に関しては不安に感じることはなかったです。まあ、いざ行ってみたら面喰らいましたけどね。すごいところに来てしまったなと……」
同時期、オランダのフェイエノールトへ移籍した小野伸二はチームの中心選手として活躍していたが、稲本にはリーグ戦に出場するチャンスもなかった。
「前から後ろまで、すごい選手がずらりと並んでいるわけです。そういう厳しい競争のなかで、試合に出られないことを当たり前と考えている自分がいました。当時のプレミアリーグはベンチ入りできる人数が少なかった。チャンピオンズリーグは18人だったのでまだチャンスもありましたけど、リーグ戦で試合に絡んでいくのはハードルが高い。『これは無理だろう』と競争もせずに、初めから諦めているところがありました。せっかくトップオブトップの環境で練習して、経験を積もうと思ってアーセナルに来たのに、クラブ内で本気の競争ができていなかった。今思うと、本当にもったいないことをしてしまいました」
22歳になったばかりのアジア人。英語も流暢には話せない。初めての海外移籍どころか、移籍すら初体験だった。今のようにスマートフォンもなく、インターネット環境も悪い。携帯電話はあっても日本語の入力すらできない。戸惑いや葛藤、孤独感は現在の海外移籍とは比べ物にならないはずだ。
「サッカー漬けにならざるを得ない環境でしたね。とにかく、自問自答じゃないけれど、考える時間だけはたくさんありました」
アーセナルで得た「サッカー人生の糧」とは
そんな稲本がすがったのは、日本代表だった。
「アーセナルで試合に出られなくても、代表には呼んでもらえた。代表に呼ばれていることが頼りというか、そこに安心感を抱くというか……。アーセナル時代はそういう時間でした。幸いリザーブリーグでは試合に出られたので、そこでコンディションを上げていこう、結果を残そうといろいろ考えながらやっていました。その経験は今も活きています」