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落合博満を「センセイ」と呼んだゲーリー、薄毛に悩んだマーチン…中日在籍61年「ミスター裏方」が語っていた“愛され助っ人たちの素顔”
text by
小西斗真Toma Konishi
photograph byKazuhito Yamada
posted2022/04/23 11:01
中日OB・足木敏郎さんが獲得に携わった選手の中でも、選りすぐりの4人のエピソードを紹介したい
9月19日の巨人戦(ナゴヤ球場)を終えて、ナインはファンの前でモッカを胴上げして見送った。モッカもナインへの感謝の印としてプレゼントを手渡した。例えばファーストの谷沢健一には虫取り網。「自分の三塁からの送球が何度も高く浮いてしまい、一塁手に迷惑をかけた。来年からはこれで捕ってくれ」。ユーモアに富んだ別れの場を陰で支えたのが足木さんだった。モッカに依頼され、こうしたグッズを買い集めていたのだ。
なお、引退後は指導者としても活躍。アスレチックスとブルワーズでは監督を務めた実績から、中日の監督候補としても何度も名前が報道されている。情熱と知性と理論を兼ね備えていた証しだろう。
落合博満を「センセイ」と慕ったゲーリー
そのモッカと入れ替わる形で86年に入団したのがゲーリー・レーシッチ。やはりMLBでは3本塁打止まりの左打者だったが、NPB初年度からいきなり36本塁打と才能を花開かせた。翌87年にはロッテから移籍してきた落合博満を「センセイ」と呼び、弟子入り。神主打法を取り入れたことでも知られる。前年はリーグワーストの105三振と粗さも目立ったが、神主打法により打率を6分以上も上げた(規定打席不足ながら.317)。3シーズンで通算76本塁打を放っている。
誠実で温厚。そんなゲーリーが一度だけ怒ったと、生前の足木さんは明かしている。88年、球団は新たな外国人との契約が完了したと発表した。当時のルールでは一軍でプレーできる外国人は2人まで。ドラゴンズにはゲーリー以外にも郭源治がいた。プライドは傷つき、球団への不信感を募らせた。しかし、その選手は5月に近鉄から譲渡を持ちかけられ、移籍していった。そう。あのラルフ・ブライアントである。このシーズン限りでゲーリーは去り、ブライアントは新天地での伝説をスタートさせていった。
パウエル「足木さんは私の人生を変えてくれた」
最後がアロンゾ・パウエル。昨シーズンまでドラゴンズの打撃コーチを務めていた男は、足木さんの訃報を知り、球団を通じてコメントを発している。