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落合博満を「センセイ」と呼んだゲーリー、薄毛に悩んだマーチン…中日在籍61年「ミスター裏方」が語っていた“愛され助っ人たちの素顔”
text by
小西斗真Toma Konishi
photograph byKazuhito Yamada
posted2022/04/23 11:01
中日OB・足木敏郎さんが獲得に携わった選手の中でも、選りすぐりの4人のエピソードを紹介したい
ジーン・マーチン。大リーグでは通算1本塁打と壁に苦しんだ左打者だが、中日に入団した74年、4月16日(ヤクルト戦)の3打席連続2ランで一気に覚醒した。シーズン35本塁打で巨人のV10を阻止する原動力となった。NPBでは計6年間(79年だけ横浜大洋)プレーし、通算189本塁打。日本で素質を開花させた典型的なスラッガーだった。
バイク好きで知られ、リーグ優勝したご褒美にドラゴンズの後援会長でもあったスズキの鈴木修会長(当時)から同社のバイクをプレゼントされた。大喜びのマーチンは、帰国後も大事に乗り続けたという。オールドファンには似合っていた口ひげが印象的だろうが、当時27歳のマーチンの密かな悩みは薄毛だった。攻撃時のヘルメットから守備時の帽子へのかぶり換えが、名人芸の超速だったことでも知られている。
在籍中の77年に息子が誕生。当時はほとんどの外国人選手が日本の病院で診察、治療を受けることに抵抗があったが、マーチン夫妻は名古屋での出産を選んだ。退団時には球団事務所や中日新聞社に、残留を望むファンから抗議の投書が殺到したそうだ。両親からそういった話を聞かされたのか、後年、成人した息子は生まれ故郷の名古屋を訪問。心からもてなしてくれたのが足木さんだったと聞く。
モッカが「虫取り網」を贈ったワケ
2人目はケン・モッカ。やはりMLBでは1本塁打と苦しんだが、82年から4年間プレーした中日では通算82本塁打、打率.304と堅実さも併せ持っていた。ピッツバーグ大で土木工学を修めたインテリで、卒論のテーマが「シアトルにおける交通渋滞緩和について」。NPB4年目の9月に若手への切り替えを理由に契約更新しないことを伝えられた。球団からすれば優勝争いからも脱落した以上、少しでも早く帰国できるようにという配慮から早めの通告となったが、モッカは「最終戦までいさせてくれ」と願い出た。