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落合博満を「センセイ」と呼んだゲーリー、薄毛に悩んだマーチン…中日在籍61年「ミスター裏方」が語っていた“愛され助っ人たちの素顔”
posted2022/04/23 11:01
text by
小西斗真Toma Konishi
photograph by
Kazuhito Yamada
ある人は「ドラゴンズの生き字引」と呼んだ。またある人は「ミスター裏方」と評した。中日ドラゴンズはOBの足木敏郎さんが4月19日、老衰のため、名古屋市内で死去したと発表した。87歳だった。
死を伝える翌日付の東京中日スポーツによると、在籍なんと61年。球界でも顔の利く名フロントマンだったが、選手としての経歴を知る人はほとんどいないのではないか。
1試合の一軍出場も“ルール違反”だった
豊川高から1953年に入団。投手だったが、ほどなくして野手に転向する。翌54年には早くも限界を悟り、自ら引退の道を選ぶ。一軍戦出場は1試合だけ。それが53年10月8日の洋松とのダブルヘッダー第1試合(中日球場)。二軍の足木さんは先輩たちの試合をスタンドで見学していた。終盤、二軍監督に突然命じられた。「今すぐユニホームに着替えろ」。言われるがまま身支度すると、今度は一軍監督に「ライトへ行け」と言われた。守備だけで交代。打席に立つことなく終えた初出場が、実はルール違反だった。
現在の出場選手登録のシステムはなかったが、もちろん誰でも一軍戦に出場できたわけではなかった。ロースター登録されていた選手だけに出場資格があったのだが、その日は無計画に控え選手を出したため、野手が足りなくなった。スタンドを見るとルーキーがいる。「ちょうどいい。こいつを使おう」と思ったようだが、足木さんはロースターに登録されてはいなかった。痛恨の勘違い。出てはいけない選手だったのだ。相手側が抗議していたら、没収試合。しかし、古き良き時代だからか誰もがスルーし、足木さんの唯一の出場も正式に記録されている。
「密かな悩みは薄毛」…ジーン・マーチンを覚えてる?
トレーナー、マネジャーなどあらゆる裏方を歴任したが、足木さんといえば渉外担当。外国人選手のスカウトである。引退後に街の英会話教室でイチから習得。獲得に携わった選手は100人を超すと言われている。その中でも選りすぐりの4人のエピソードを紹介し、足木さんの功績をしのびたい。