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壮絶な親子ゲンカも…荒川の下町育ち・鈴木誠也が母を泣かせた“ボロボロのアンダーシャツ”「やんちゃだけど不良ではなかった」親友が語る素顔
text by
村瀬秀信Hidenobu Murase
photograph byHideki Sugiyama
posted2024/04/12 17:01
25年ぶりのリーグ優勝に貢献するなど、2016年に大きな飛躍を遂げた鈴木誠也
「将来はプロ野球選手になる」という誠也の口癖は、家庭の事情により中学で野球を諦めざるを得なかった父の夢でもある。10代で結婚しても「ちゃんと育てるために」と10年は懸命に働き子供は我慢した。1994年、30歳の時に誕生した待望の長男は、神様からの贈り物のような野球の申し子だった。
生後1カ月。父の不注意により高所から落下しても額の擦り傷だけで済んだ体の強さと強運があった。1歳の誕生日では一升餅を背負いながら走り回るパワーとスピード。2歳では祖父が投げるボールを見事に打ち返すミート力を備えていた誠也は、小学校2年生で「野球をやりたい」と地元の荒川リトルに入団。練習のない平日は、店の裏にある都電荒川線と並行する路地で投球練習をし、荒川線に負けじとダッシュを繰り返す。
父は店の倉庫を改造し手製の打撃練習場を作ると、その様子はテレビ番組で「平成の星親子」として紹介される。実際の親子関係も“大リーグ養成”さながら、父が特注の細い鉄のバットでゴルフボールを打つ特訓を課すと、子は百発百中で打ち返す。父が一徹ばりのビンタをすれば、子が負けじと喰らいつく。壮絶な親子ゲンカは日常茶飯事だった。
「誠也はやんちゃだけど、不良ではなかった」
「はじめて会った時から野球選手として出来上がっていました」というのは、鉄バットを作った相馬工業の石墳成良。誠也が所属した荒川シニアの事務局長も務めていた。
「バッティングは物凄い飛ばす。ピッチングも球が速すぎてキャッチャーが捕れない。リトルの短い距離では体感で150kmは出ていると言われていましたから」
2006年。荒川シニアには当時歴代最強と言われたメンバーが集まって来た。その中には、伝統的に“全員が王様で一匹狼のワル”が集まる、足立区の不良界をまとめたチームの副リーダー松村健もいた。
「誠也は荒川のやんちゃだけど、不良ではなくケンカもしない。ただ、体が大きくていかつく見えるから、勘違いされやすかった。足立のやんちゃだった健も、男気のある人間でね。困った人や弱い立場の人がいると見過ごせず自分が前に出て戦う正義の人ですよ。そんな人柄にワルたちが心酔して祀り上げられたような奴なんです」