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「アバラが浮くほどガリガリだった」旗揚げシリーズから50年… 藤波辰爾68歳がリングで伝えた「猪木さん」への思いとプロレス愛 

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原悦生

原悦生Essei Hara

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posted2022/03/06 11:03

「アバラが浮くほどガリガリだった」旗揚げシリーズから50年… 藤波辰爾68歳がリングで伝えた「猪木さん」への思いとプロレス愛<Number Web> photograph by Essei Hara

左から棚橋弘至、藤波辰爾、オカダ・カズチカ。新日本プロレスの新旧スターが50周年を祝う3月1日の『旗揚げ記念日』で共闘した

 藤波は凱旋試合でマスクド・カナディアン(ロディー・パイパー)をドラゴンスープレックスで撃破。同年7月、日本武道館で行われた剛竜馬との試合は若いファンの間で話題になった。藤波のスピーディで小気味のいいファイトと甘いマスクは、多くの女性ファンの獲得にもつながった。

 同年8月、筆者は藤波がメキシコ遠征を行った際、現地で彼に会っている。メキシコシティ郊外のパラシオ・デ・ロス・デポルテス、2万5000人を超える大観衆の中で、藤波はメキシコの鉄人レイ・メンドーサの挑戦を退けた。試合場のあまりの大きさに、会場入りした藤波は「ソフトボールができるね」と驚いていた。

たった一度、アントニオ猪木に歯向かった「飛龍革命」

 チャボ・ゲレロとの伝説の大流血試合。カネックの敵前逃亡という事件まで起きたが、ドラゴンブームは止まらなかった。

 ジュニアヘビーからヘビー級への転身。長州力の「噛ませ犬発言」のターゲットになった藤波はそれを受けて立ち、名勝負数え歌と絶賛された。

 前田日明との壮絶な戦いにもひるむことはなかった。

 猪木越えは果たせなかったが、藤波は昭和から平成へと揺れ動く日本のプロレスに身を置いた。

 タッグマッチだったが、1985年12月、藤波は猪木からドラゴンスープレックスでフォールを奪ったことがあった。だが、時代は変わらなかった。

 藤波が政治的に猪木を裏切ったことは一度もなかった。藤波がプロレスラーとして猪木に歯向かったのは一度だけだ。それは「飛龍革命」とも呼ばれたが、猪木という魔物は巨大すぎた。1988年8月に横浜で行われたIWGP王者・藤波と猪木の試合は、60分フルタイムの引き分けに終わった。

 藤波は1999年から2004年の間、新日本プロレスの社長を務めた時期もあったが、猪木に翻弄された。猪木には「ノー」と言えない藤波がいた。

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