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〈発掘〉97歳日本人が70年前、世界No.1サッカー選手と直接対決していた!「ディ・ステファノは信じられないような…」
text by
ファビアン・ロソ・カスティブランコ/沢田啓明Fabian Rozo Castiblanco/Hiroaki Sawada
photograph byL'EQUIPE/AFLO
posted2022/03/07 17:01
1950年代におけるディ・ステファノは現代で言うメッシのような存在だが、そんな彼もレアル・マドリー加入前は“海賊リーグ”に所属したという
チームカラーが青と白なので、高い個人技を存分に発揮しての華麗な攻撃は「青いバレー」と呼ばれた。試合によってはいくらでも点が入るため、相手選手を刺激しすぎないよう、「5点取ったらそれ以上はダンスをする(もう点を取らない)」という内輪のルールを決めていたという。
日本人の道工は直接対決で引き分けに持ちこんだが
7月、薫を擁するサンタフェはホームでミジョナリオスと対戦し、2-2で引き分けた。薫が先発して奮闘したが、ペデルネッタを中心とする攻撃を止めることができなかった。
この年、ミジョナリオスは、26試合で99得点をあげ、20勝4分2敗で初優勝した。平均得点は、実に3.8。アルゼンチン人CFペドロ・カビジョンが、42点を奪って得点王に輝いた。サンタフェは、ミジョナリオスと勝ち点5差の3位だった。
スタジアムの平均収容人員は3万人を超え、ほとんどの試合が超満員。クラブは空前の収入を手にし、さらなる外国人選手獲得に奔走した。
1950年は、参加チームが16に増えた。この年、サンタフェは4月にミジョナリオスとアウェーで対戦し、1-3で敗れた。この試合で、薫は初めてディ・ステファノと対戦している。ディ・ステファノの印象を、以下のように語る。
「とてつもない選手。信じられないようなテクニックとスピードの持ち主で、自陣からでもドリブルで突破してくる。彼を抑えるには、影のように密着マークするしかない。ほんの数cmでもスペースを与えたら、もう次の瞬間にはゴールを決められているんだ」
8月にもホームでミジョナリオスと対戦し、0-0で引き分けた。この試合で、薫はディ・ステファノ、ペデルネッタらのシュートを得意のブロックで食い止めた。この年、ミジョナリオスの強力攻撃陣が不発に終わった唯一の試合だった。
デポルテス・カルダスが初めてリーグを制覇し、ミジョナリオスは準優勝。サンタフェは8位に留まった。
<第3回に続く>