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〈発掘〉97歳日本人が70年前、世界No.1サッカー選手と直接対決していた!「ディ・ステファノは信じられないような…」 

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ファビアン・ロソ・カスティブランコ/沢田啓明

ファビアン・ロソ・カスティブランコ/沢田啓明Fabian Rozo Castiblanco/Hiroaki Sawada

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posted2022/03/07 17:01

〈発掘〉97歳日本人が70年前、世界No.1サッカー選手と直接対決していた!「ディ・ステファノは信じられないような…」<Number Web> photograph by L'EQUIPE/AFLO

1950年代におけるディ・ステファノは現代で言うメッシのような存在だが、そんな彼もレアル・マドリー加入前は“海賊リーグ”に所属したという

当時世界No.1のディ・ステファノすら強奪した

 ディ・ステファノは、当時22歳。名門リーベルプレートのアカデミー育ちで、1945年、19歳でデビューした。

 完璧なテクニック、抜群のスピード、無尽蔵のスタミナを備えたアタッカーで、ドリブル、パス、シュートのすべてが一級品。組み立てからフィニッシュまで攻撃のすべてをやってのけ、おまけに守備力も高かった。

 1947年、アルゼンチン代表入りし、この年の南米選手権でチーム最多タイの6得点をあげて優勝に貢献。アルゼンチンリーグでも、30試合で27得点をあげて得点王に輝いた。当時、急成長を続けていたスーパースター候補生だった。

 1940年代のリーベルプレートは、その圧倒的な攻撃力から「ラ・マキナ」(マシーン)と称された。また、アルゼンチン代表は1941年から1947年まで行なわれた南米選手権の4大会のうち3大会を制覇しており、ウルグアイ、ブラジルも歯が立たなかった。

 第二次世界大戦のため1942年と1946年のワールドカップ(W杯)は中止されたが、南米では「もし開催されていたら、アルゼンチンが連覇していたのではないか」と言われている。ミジョナリオスは、当時の南米最強で、世界でも最強だったかもしれないリーベルプレートやアルゼンチン代表の主力を強奪したのである。

他クラブも引き抜きし続けて“海賊リーグ”化

 このようなミジョナリオスのやり口を真似て、コロンビアの他クラブもアルゼンチン、ウルグアイ、ブラジルなどの南米各国、さらにはイングランド、イタリア、ハンガリー、オーストリアなどの欧州各国のスター選手を引き抜いたから、世界中で大騒ぎになった。

 コロンビアリーグは、選手にとっては破格の高給を食むことができる“エル・ドラード”(黄金郷)だった。しかし、理不尽なやり方で選手を奪われたクラブにとっては、憎悪すべき“海賊リーグ”に他ならなかった。

 この年の参加チームは、前年度の10から14へ増えた。シーズン終了時点で、全選手252人の約43%にあたる109人が外国人。出身国は12を数えた。最も多いのがアルゼンチンの57人で、アルゼンチンリーグの最も優れた選手がそっくりコロンビアへやってきた感があった。

 ミジョナリオスは、前年から在籍していた優秀な外国人選手とコロンビアのトップ選手に加えての大型補強で、チーム力が格段に強化された。

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