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壮絶なイジメ、解雇事件…絶対的エース・大林素子はバレーでいかに“復讐”したのか「信用したって点はとれない」
text by
河崎環Tamaki Kawasaki
photograph byShigeki Yamamoto
posted2021/07/14 11:04
現役引退から25年が経った大林素子さん(54)
「身体のしなりで打つんです。私はパワーがないので、しなりやスピード、あと技術でやっていたタイプです。例えばベンチプレスなんかも、周りの選手が自分の体重と同じ重さを1回は上げられたところを、私はどんなに頑張っても32.5キロぐらいが限界。たぶん今も抜かれてないぐらい歴代のワーストだと思いますよ(笑)」
アスリートだからといって、運動能力の全てが綺麗なバランスで五角形を作るわけではないのか。ただ、バレーの神様は、わかっていたのかもしれない。
「私はスポーツの天才とかではないんです。日立はもうバレーのトップ・オブ・トップ、頂点ですよね。それが地元にあったというのが、やっぱり運命的なものだったのかな」
日立“解雇事件”も「むしろクビにしてもらって感謝」
現役時代の活躍があまりに印象深い大林だが、五輪出場後の選手人生はすべてが順風満帆ではなかった。だが大林は一筋の疑いも挟むことなく、こう言い切る。
「チーム選択など含めて、私は人生の中で一つも“たられば”はないです。後悔がない。中学で日立へ通うことを選んで、八王子実践高校に入って、実業団で日立選んで、プロでイタリアへ行って、帰国して東洋紡を選んだ。ただ、日立でプロにという思いが叶わず、ごたついて“事件”になりましたけどね。最終的にはもっと上の夢をつかめたので、そういった意味では、振り返ると全部よかったと思います」
“事件”とは、1994年11月に、当時所属していた「日立ベルフィーユ」の日本代表メンバーの全員がプロ契約を求めて退部届を出し、会社との話し合いを経て撤回したものの、11月に騒動の責任を負わされる形で大林と吉原知子が日立を解雇された事件である。それをきっかけに大林は翌1995年1月からイタリア・セリエAのアンコーナと契約、日本人初のプロバレーボール選手として約半年間の活動後、帰国して日本のVリーグへ戻り、東洋紡オーキスと契約した。
「日立を解雇になったことすら、よかったと思ってます。あの時は、『いじめられて死のうと思った時とどっちが最悪だろう?』と思ったくらいの衝撃でしたけれど。でも最終的にはしんどいことよりも、イタリアに行けたことの方が大きかったので。嫌味ではなく、むしろクビにしてもらって感謝してるんです」