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現地番記者が暴露する“銀河系レアル”崩壊の真相… ベッカム加入も停滞、フィーゴが批判した「最低の監督」とは
posted2021/03/01 17:02
text by
カルメン・コリーノ(ディアリオ・アス紙)Carmen Colino(Diario AS)
photograph by
Takuya Sugiyama
2003年6月22日、レアル・マドリーはホームでアスレティック・ビルバオを破り、最終節でリーグ優勝を決めた。その夜に世紀の迷走がはじまることなど、歓喜に沸くマドリディスタたちには予見できるはずもなかった。
「ロナウドのリーガ」を祝うはずだったその夜、デルボスケの続投が拒まれたことに腹を立てていた選手たちは、試合後のセレモニーでグラウンドを2度周回することを拒否した。シベレス広場の噴水に登る伝統行事をマドリー市長が許可しなければ、彼らは市庁舎への表敬訪問もボイコットするつもりだった。
こうした対立の先頭に立っていたのはキャプテンのイエロだ。祝勝ムードとなるはずの夕食会は緊迫した空気に包まれ、フロレンティーノ・ペレス会長とイエロの言い争いはメソン・チストゥ(マドリーの有名レストラン)の外まで響くほど激しかった。
エルゲラが明かす優勝後の“しらけ具合”
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「みなが続投を望んでいたのに、クラブはデルボスケを切るつもりだった。会長は自分たちと一緒にリーグ優勝を祝うのも嫌がっていたから、とても夕食を楽しめるような雰囲気ではなかったよ」
当時マドリーの一員だったエルゲラは、何年も後にそう振り返っている。
この日の衝突が原因で、イエロはマドリーを去ることになった。クラブに正当に評価されていないと感じていたマケレレもチェルシーへと移籍していった。
デルボスケは3年半の間に7つのタイトル(チャンピオンズリーグとリーガを2度、スーペルコパ・デ・エスパーニャ、UEFAスーパーカップ、トヨタカップを1度)を勝ち取ったにも関わらず、クラブから何の連絡も受けぬまま契約満了を迎えた。フロレンティーノは当時、その理由を「彼のプロジェクトには限界が見えはじめていた」と説明している。
黄金期を築いた監督とキャプテンを同時に切り捨てる。シーズン終了から24時間も経たぬうちに下したこの決断により、マドリーはその後数年にわたって高い代償を払い続けることになる。