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現地番記者が暴露する“銀河系レアル”崩壊の真相… ベッカム加入も停滞、フィーゴが批判した「最低の監督」とは
text by
カルメン・コリーノ(ディアリオ・アス紙)Carmen Colino(Diario AS)
photograph byTakuya Sugiyama
posted2021/03/01 17:02
世界、とりわけ日本で大ブームを起こしたベッカムのレアル・マドリー移籍。しかし彼の加入は、第1期ペレス会長政権終焉の始まりだった
ルシェンブルゴとは2006年6月まで1年半の契約を結んだ。2004-05シーズンは無冠に終わったが、チームは上向きだった。オフにはジュリオ・バチスタ、ロビーニョ、セルヒオ・ラモス、パブロ・ガルシア、カルロス・ディオゴらが加わり、新シーズンへの期待は高まっていた。
“魔法陣”システムにフィーゴらは「過去最低」
しかし、2年目のルシェンブルゴは自ら「クアドラド・マヒコ(魔法陣)」と名付けた新システムと心中することになる。主力選手との衝突も多く、後にフィーゴからは「過去最低の監督だった」と評価された。
解任の引き金となったのはフロレンティーノとの口論だった。きっかけはリーガのヘタフェ戦で行なった采配だ。ベッカムが退場した後、指揮官は1-0のリードを守るべくロナウドを下げてDFを投入したのだが、これにサンティアゴ・ベルナベウのファンは怒り狂った。
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「ここではそのような采配はあり得ない。我々はスペクタクルを提供しなければならない。ファンはスペクタクルを求めているんだ!」
チャンピオンズリーグのリヨン戦にて、大量得点が必要だったにも関わらずベッカムを下げミチェル・サルガドを投入したことにも腹を立てていたフロレンティーノは、頭に血が上った状態でルシェンブルゴに詰め寄った。
会長との衝突、そしてほどなく解任
後にルシェンブルゴはウェブサイト「ザ・コーチズ、ボイス」に綴った「マドリーの砂時計」というタイトルの記事の中で、この一件について振り返っている。
「あの日の口論がなければ、レアル・マドリーで監督を続けていただろう。お互い熱くなり過ぎた、不要な衝突だった。時間さえあれば、思い通りのチーム作りを実現できるはずだったんだ」
2005年12月4日、就任から339日後にルシェンブルゴは解任された。デルボスケの退任以降、マドリーはスーペルコパしか獲れていなかった。フロレンティーノは再び下部組織に目を向け、それまでカスティージャを率いていたロペス・カロにトップチームを任せた。
ロペス・カロについて言うべきことはほとんどない。彼はリーグ4位で引き継いだチームを2位まで引き上げた。それでも続投できなかったのは、自身を抜擢したフロレンティーノが辞任してしまったからだ。