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巨人でやり残した“最後の宿題” 「嫌ですよ(苦笑)。すごい嫌でした」6年前に25歳菅野智之が語っていたこと 

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中溝康隆

中溝康隆Yasutaka Nakamizo

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photograph byHideki Sugiyama

posted2021/01/11 17:02

巨人でやり残した“最後の宿題”  「嫌ですよ(苦笑)。すごい嫌でした」6年前に25歳菅野智之が語っていたこと<Number Web> photograph by Hideki Sugiyama

交渉期限までにまとまらず巨人残留が決定した菅野智之

「正直まだ実感もないですけど、大変な状況なときこそチームを救えるというか、雰囲気を1試合、1回の投球で変えられる選手がエースって言われる存在なのかなって。やっぱり(そういう意味では)まだまだなのかなと思いますね」

 マシン相手にひとりバント練習に燃えていたと自嘲気味に振り返る浪人時代を経て、プロ1年目はドラフトの経緯から他球団ファンに叩かれながら13勝を挙げ、日本シリーズでは楽天・田中将大の連勝記録を止めてみせた。2年目は開幕投手に抜擢され、贔屓だと自チームの一部ファンからさえも批判される理不尽な状況にもかかわらず、自身初のセ・リーグMVPに輝く。決してそのプロ生活は順風満帆ではなく、逆風の中でのスタートだったのだ。

「グラウンド以外のところで主張するとおかしなことになるので、やっぱりプレーでというか、結果を出すしかない。(批判の声を)見返すという感覚はないけど、手の届かないところまで行くしかないと思うんですよ。だから現状の結果じゃ満足できない、という気持ちは常に持ってますね」

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 手の届かないところまでいくしかない――当時の菅野はまだプロ3年目。選ばれし者の恍惚と不安、ふたつ我に在り。大投手への階段を昇り始めた一方で、学生時代のチームメイトたちと食事へ行ったことを嬉しそうに話したり、早く結婚して落ち着きたいと語る普通の兄ちゃんといった雰囲気も感じさせた。

「嫌ですよ(苦笑)。すごい嫌でしたよ」

 それでも少年時代から野球選手以外の職業は考えたことがなく、旅行中の砂浜で唐突に20本ダッシュを課せられるようなガチンコの野球一家に育ち、常に偉大な伯父と比較されてきた男。いやオレならグレちゃうかもな……じゃなくて、何をやっても、大学球界を代表する投手になっても、「原辰徳の甥っ子」と報じられ続けるハードな環境だ。

「嫌ですよ(苦笑)。すごい嫌でしたよ。どんなに良いピッチングしても必ず新聞には原監督の甥って大きく出てて、ちっちゃく菅野って書いてある。それはほんとに嫌だった。悔しいとか言うよりも嫌だった」

 今聞くと、思春期の苦悩すら感じさせる25歳・菅野智之の本音。小学生の頃からエースで4番、自ら打って抑えても周りはアイツなら当たり前みたいな感じで、いったいなにをしたら褒めてくれるのか、認めてくれるのか。でも……とこう続けたのだ。

【次ページ】 “令和の大エース”に足りないたったひとつのこと

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