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チアゴ・アルカンタラ&ラフィーニャ兄弟をどうやって育てた? 元ブラジル代表の父・マジーニョに聞いた
posted2021/01/10 17:00
text by
エリック・フロジオEric Frosio
photograph by
Alex Martin/L’Équipe - Stéphane Mantey/L’Équipe
元ブラジル代表のミッドフィルダーにして1994年アメリカW杯優勝メンバー。現在54歳になるマジーニョは、自らの経歴以上に今日では2人の息子――リバプールに所属するチアゴ・アルカンタラと今季パリ・サンジェルマン(PSG)に移籍したラフィーニャ――の父親としてのほうが有名である。
そのマジーニョを、『フランス・フットボール』誌11月3日発売号でエリック・フロジオ記者がインタビューしている。自身の経歴について、2人の息子――とりわけPSGの新戦力としてスタメンに定着(移籍後のリーグ戦全11試合に出場。うち9試合はスタメン出場)している次男ラフィーニャ――について……。マジーニョが語った。
(田村修一)
◆◆◆
ライーとのポジション争いを制して“W杯優勝”へ
――サッカーファンがあなたと街角で出会ったら、マジーニョという名前であなたを呼ぶのか、それともチアゴとラフィーニャのパパという呼び方をするのでしょうか?
マジーニョ 今日では私は、チアゴ(29歳)とラフィーニャ(27歳)の父親として認識されている。当然だと思うし特に気にもならない。私自身のキャリアは過去のもので、今は3人の息子たちの恩恵にあやかり、彼らの辿る軌跡を私も近くで踏襲している。2人が好きなことをやりながら、私と同じ道を歩んでいることに満足している。
――それではいったん父親であることを忘れてマジーニョとして語ってください。ブラジル北東部のパライバ州出身であるあなたが、どうしてリオのバスコダガマでプレーするようになったのですか?
マジーニョ 16歳のとき、ある代理人がサンタリタ(生まれ育った街)の小さなクラブでプレーする私に眼をつけた。その代理人に連れられてリオに行きバスコのテストを受けた。バスコはもともと大好きなクラブで、ロマーリオと一緒に育成センターで育てられた。当時から彼はちょっと傲慢だったけど、寛大な心も持っていた。バスコでの7年間は本当に素晴らしかった。
――その後、1990~92年をイタリアのレッチェとフィオレンティーナで過ごし、ブラジルのパルメイラスに戻って94年W杯を迎えました。フランスでは、あなたがライー(W杯後PSGで活躍)をベンチに追いやった印象がとても強く残っています。
マジーニョ チームのスタッフは戦術的なアンバランスが気になっていた。ラウンド16のアメリカ戦(1対0の勝利)で私が彼のポジションにとって代わり、決勝までスタメンを維持し続けた。それほど期間の長くない大会で、そうしたチャンスは絶対に逃してはならない。W杯優勝は、私のキャリアの中で最も大きなタイトルだ。誰もが獲得できるものじゃない。
――その結果、バレンシアと契約することになりました。
マジーニョ いや、W杯の前にすでに契約を済ませていた。この移籍は私の人生を変えた。6シーズンをスペインでプレー(バレンシア、セルタ・ビーゴ、エルチェ)して、今もスペインに住んでいる。あまりに居心地が良いからどこにも行く気にならなかったし、子供たちもスペインでキャリアをスタートさせた。私はバルセロナにベースを置き、そこで仕事を得た。今もとてもハッピーだ。
どうやって“サッカーの天才兄弟”に育てた?
――子供たちはどうやってサッカーにとり憑かれたのでしょうか?