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マラドーナ発「戦術進化の革命史」 メッシら現代的10番とクロップ&グアルディオラの発想が生まれたワケ
text by
田邊雅之Masayuki Tanabe
photograph byAFLO
posted2020/12/28 11:00
マラドーナを止めに行くミランのバレージ。天才アタッカーがこの世に生を受けていなければ「10番」の進化も、果敢なプレスもなかったはずだ
3つ目の要素は、戦術の進化の方向性に与えたインパクトである。
マラドーナは歴代の10番の中で、単独でゲームを決める能力に誰よりも恵まれていた。だが、ずば抜けた「個」の能力を持つがゆえに、本格的な組織サッカーの到来を招く旗振り役ともなった。
巨大な化学変化が起きたのは1980年代後半のイタリアである。ACミランの監督に就任したアリゴ・サッキはプレッシングを掲げ、以降の戦術進化の方向性を決定づけることになる。そのモチーフとなったのは、ナポリのマラドーナ対策だった。
「マラドーナを抑えつつ、攻撃的であれ」
サッカーの戦術進化論は、知将が追求した課題と目的、「文脈」を抜きにしては語れない。ミランのOBたちは、異口同音に証言している。
「アリゴ・サッキが、個を封じ込める手段として考案したのは、紛れもない『全体主義』そのもの。フィールドを16分割し、その中で一糸乱れぬ動きが絶えず求められた。そしてミランは翌年、マラドーナのナポリをサンパオロで降してスクデットを獲得したのだ(マルディーニ)」(Number 621号所収 ACミラン「革命の生まれる場所」。宮崎隆司=文)
「マラドーナを抑えながら、だが同時に極めて攻撃的であること。これが、ベルルスコーニ体制下で謳われた最初のスローガンだった。(中略)彼を抑えるための策、その方法もまた画期的だった。(中略)ナポリ戦の前、キックオフを10分後に控えたロッカールームで、サッキは我々に何度も繰り返していたものだ。『奴にボールを渡すな。奴の視界からボールを消せ』――これが、打倒マラドーナの唯一にして絶対的な策に他ならなかった(バレージ)」(同)
マラドーナ後のプレッシングの違いとは
むろん「個」か「組織」かという対立軸は、マラドーナ以前も存在していた。これはプレッシングにも当てはまる。
だが「ポストマラドーナ時代のプレッシング」には、明白な違いが存在した。
かつての組織的サッカーとは、弱者が強者に対抗するためによく用いられた手段だった。人材に乏しくても知恵とチームの練度を武器に、負けにくい状況を創り出すことができたからである。
しかし、ポストマラドーナ時代のプレッシングは、豊富なタレントを擁する強者も駆使する戦術となった。その代表格がACミランに他ならない。サッカー界には優れた「個」を揃えた上で、組織の「駒」として機能させる時代が到来したのである。
リティが日韓W杯時に語った「攻撃のための防御」
新たな戦術と発想は、国際試合にも反映される。マラドーナと同時期に活躍したリトバルスキーは、次のように語っている。
「W杯90年大会は、戦術の歴史を語る上で分岐点になったと言えるかもしれない。マラドーナは組織的なサッカーに完全に封じ込められたからだ。個があれほど存在感を発揮できたのは、86年大会が最後だったと思う」
戦術進化のベクトルは、攻撃と守備を分けて捉える発想も下火にしていく。再びリトバルスキーの分析を紹介しよう。このコメントは日韓大会当時のものだ。
「今回は、攻撃展開のための防御という発想が出てきた。(中略)しかも、防御から攻撃への展開は決定的に速くなってきている。これはあきらかに戦術的な“進化”だと思う」