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早大野球部「楽天でもマー君みたいになるんじゃね?」 ドラ1早川隆久が高卒プロ入りを諦め、“155km”無双するまで 

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田口元義

田口元義Genki Taguchi

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photograph byHideki Sugiyama

posted2020/12/15 17:02

早大野球部「楽天でもマー君みたいになるんじゃね?」 ドラ1早川隆久が高卒プロ入りを諦め、“155km”無双するまで<Number Web> photograph by Hideki Sugiyama

2020年ドラフト会議、最多タイ・4球団から指名を受けた早稲田大学エース・早川隆久。楽天入団を発表した

 さらに5年後の11年には、地元の横芝光町が東日本大震災の被害に遭った。震災時に小学校にいた早川はそこで一夜を過ごし、町や実家も津波によって被災した。だからこそ、13年に楽天が初の日本一となった輝きは鮮明に覚えており、24勝無敗の絶対エース・田中の熱投に、少年は再び心を躍らせた。

 しみじみと話してくれていた早川が、意思の強さが伝わる声色で重ねる。

「震災に関してはいい縁とは言えないかもしれませんけど、楽天にはすごく縁を感じました。宮城県に招かれたというか、導かれるように道ができていたような気がしますね」

 点と点。いくつもの縁が一本の線へと繋がり、早川を楽天へと導いた。確かに、そう表現できる歩みを、彼はしてきた。

高卒でのプロ入りを断念した理由

 木更津総合高校からのプロ入りを断念した点も、そのことを物語る。

 2年生のセンバツで2試合に先発。3年春には甲子園ベスト8と実績も残した。145キロに迫るストレートを誇り、全国的にも名を轟かせた早川は、「ドラフト候補の投手」と呼ばれるようになっていた。

 その一方で、夏を迎える頃になると「早稲田大進学」といった声も囁かれるようになった。高校の監督である五島卓道が同大学OBで、早川の直近の先輩たちも進学していたことから、一部で「既定路線」と報じられていたものだが、それは誤りである。

 2年秋の時点で早川の気持ちはすでに傾いていた。たまたまテレビで観ていた早慶戦。大竹耕太郎の完封で東京六大学リーグを制した早稲田が、純粋に「かっこいい」と思えた。

 早川が郷愁を呼び覚ます。

「大竹さんがガッツポーズして、神宮のマウンドにみんなが集まっている姿を見て『自分もこの舞台で投げたい!』って感じて。そこから、五島監督にお願いして早稲田の試合を観に行かせていただいたり、『大学でしっかり学んでからプロに行っても遅くはないんじゃないか』とか、ちゃんと話をさせてもらった上での決断なんで。特に『既定路線に乗って』ってわけではなかったです」

「あぁ……俺も(プロ志望届を)出せばよかったな……」

 そして、「まだ力が足りない」と自覚したことも、伏線にあった。

 3年夏も甲子園のマウンドに立ち、2季連続ベスト8の原動力となった。しかし、世間の評価は「高校ビッグ4」と呼ばれた作新学院の今井達也、花咲徳栄の高橋昂也、横浜の藤平尚真、履正社の寺島成輝に集中していた。

 甲子園後のU-18で彼らとチームメートとなった早川は、改めて巨頭たちの力をまざまざと見せつけられたという。ストレートで簡単に空振りやファウルを奪え、三振を取れる変化球もある。早川もスピードは遅くないし、変化球の精度も高いレベルにあった。それでも、4人と比肩できるものがないと悟った。

 だから、プロ入りを一旦、封印したのだが、完全に気持ちを解消したわけではない。

 16年秋。早川は高校の野球部の寮でドラフト会議を見ていた。西武が今井、楽天が藤平、ヤクルトが寺島と、3人が1位指名され、高橋も広島から2位で呼ばれた。

 ――悔しさはなかった?

【次ページ】 当初は「(プロに行ければ)何位でもいい」

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