プロレス写真記者の眼BACK NUMBER
“呪われたIWGP”が持つロマン。
プロレス界の栄枯盛衰を映す鏡。
posted2020/06/29 11:00
text by
原悦生Essei Hara
photograph by
Essei Hara
構想から40年という長い歴史の中で、「IWGPは呪われている」と言われていたことがある。
1983年6月2日のアントニオ猪木の衝撃的KO負けから、因果関係は別として、新日本プロレスや猪木の周辺ではよくないことが続いていた。
IWGP創設に関係し、あのエルビス・プレスリーとも友人だったカナダの大物プロモーターであるフランク・タニーは日本からの帰りに立ち寄った香港で急死している。
同年8月にはタイガーマスク(佐山サトル)が突然、新日本プロレスを去った。さらに同月、猪木は社内クーデターによって社長を解任。その責任を一緒に取らされた形で、IWGPの実行委員長だった新間寿は新日本を追われた。
翌年には新日本といい関係にあったWWF(現WWE)のビンス・マクマホン(シニア)代表が死去。メキシコUWAのフランシス・フローレス代表もこの世を去った。
そんな中、第2回IWGPは1984年も開催されたが、その優勝戦は荒れに荒れた。6月14日に前年優勝者のハルク・ホーガンはリーグ戦を勝ち上がった猪木と蔵前国技館で対戦した。
猪木を倒した後、ホーガンはWWF世界ヘビー級王者に。
「今年こそ猪木が勝ってくれるだろう」というファンの強い思いがあった。
だが、前年に猪木を倒した後、さらに力をつけたホーガンは、'84年1月にはWWF世界ヘビー級王者になっていた。
WWFはNWAを脱退して、ベルトに「世界」の肩書を復活させた。ホーガンの戴冠はNWAのお膝元と言われたセントルイスのキール・オーデトリアムで敢行されたWWF世界戦でのものだった。WWFにしてみれば当然、NWAを意識しての殴り込みだった。
もう、時代はNWAのものではなく、WWFや他の時代に移行しようとしていた。WWFは息子のビンス・マクマホン・ジュニアが引き継いで、全米制覇に本腰を入れ始めていた。その目玉がホーガンであった。
IWGPは違った形でアメリカのプロモーターたちを刺激したようだ。