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エディーが期待したスペシャルな才。
竹中祥27歳、戦力外後の心境を激白。
text by
大友信彦Nobuhiko Otomo
photograph byNobuhiko Otomo
posted2020/06/21 20:00
2012年6月、フレンチ・バーバリアンズ戦で80mを独走してトライを決めた竹中。
エディーも惚れたポテンシャル。
竹中は、桐蔭学園時代は松島とともにトライの山を築いたエースWTBだった。しなやかな加速で相手タックルを擦り抜ける松島とは対照的に、パワーとスピードでタックラーを次々と突き抜け、トライラインに躍った。
筑波大に進学すると、1年のシーズンにチーム最多の7トライをあげ、シーズン終了後には新たに日本代表ヘッドコーチに就任したエディー・ジョーンズの初代日本代表スコッドに選出。黄金世代の先頭を切って日本代表入りした竹中は、同じポジションに廣瀬俊朗主将、絶対的エース小野澤宏時がいたためになかなかチャンスを得られなかったが、ノンテストマッチとして行われたフレンチ・バーバリアンズ戦に初めて出場すると、自陣から80mを独走するセンセーショナルなトライをあげたのだ。近未来の、檜舞台での活躍を確信させる疾走だった。
「こんなにポテンシャルの高い選手は初めて見た」
オーストラリア、南アフリカ、イングランドで、数多くの選手を見てきたエディーは竹中の才能をそう賞賛した。小中学校時代は陸上短距離に打ち込み、100mのベストタイムは中3で出した11秒09。U-17日本代表の合宿では立ち幅跳びで3mを跳び、セレクターを驚嘆させた。密かな特技はバック転とブレイクダンスというリズム感。剛の中に柔を併せ持つ、才能の塊だった。
だがその輝きは、両刃の剣だった。
故障を抱えたまま臨んだジャパン。
「大学1年の終わりに右足首を捻挫して、リハビリの途中で参加していたんです」
竹中は日本代表に参加した時期をそう振り返った。やるなら万全の状態で臨みたいと思った一方で、エディー・ジャパンの新たな旅立ちに招集された名誉も感じた。筑波大の古川拓生監督(当時)も、桐蔭学園の藤原秀之監督も、いい機会だと背中を押してくれた。
期待されたら応えたい。竹中はエディー・ジャパンに身を投じた。早朝5時から連日3部、4部練習を敢行するハードワークの毎日が始まった。日本ラグビーの歴史を築いてきた先輩たちと過ごす時間は、19歳にとって宝石のような学びの機会だった。ラグビーに対する姿勢、練習に臨む姿勢を学び、日本最高の技術を目の当たりにした。
だが、故障を抱えたままのハードワークは代償も大きかった。足首が治りきらないまま復帰し、かばって走るうちに反対の左足首が痛みはじめた。身体のバランスが崩れ、腰痛も襲ってきた。ヘルニアも発症した。大学2年のシーズンは2試合に途中出場したのみ。筑波のエースの座は、1浪して後輩となった同い年の福岡に奪われた。復帰しては痛みが出てリハビリ生活に戻る悪循環。
それでも復帰するたびに、竹中はピッチに立てば輝きを発した。大学3年のシーズンは、復帰戦となった大学選手権の日大戦で、後半途中から出場し、短いプレー時間で2トライ。4年のシーズンも、後半に投入されるインパクトプレーヤーとしてトライを取り続け、大学選手権の明大戦では60mを豪快に走りきるセンセーショナルなトライもあげた。
卒業後はトップリーグのNECへ。1年目は大学時代の古傷治療に専念して出場ゼロに終わったが、2年目は2試合に出場。3年目の2017年度は7試合に先発して1トライ。それまで下位グループでくすぶっていたチームも4年ぶりに上位(最終順位は8位)に浮上した。2018年も、6月のみなとラグビーまつり、ワラタス戦に先発。スーパーラグビーの強豪を29-26で破る金星の一員となった。大器の覚醒は近づいていたはずだった。