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エディーが期待したスペシャルな才。
竹中祥27歳、戦力外後の心境を激白。
text by
大友信彦Nobuhiko Otomo
photograph byNobuhiko Otomo
posted2020/06/21 20:00
2012年6月、フレンチ・バーバリアンズ戦で80mを独走してトライを決めた竹中。
コロナ禍でのチーム探しは難しかった。
しかし、時期が悪かった。どこの企業もコロナ禍に伴い、企業活動は最低限のところまで休止していた。景気の先行きが見えない。企業の存続さえ保証されていない。そんな中で、「前年度全敗のチームで、1試合も出ていない選手に声はかかりませんよね」と竹中は自嘲的に言い、つぶやいた。
「何もできないタイミングでしたね……」
通常の時期なら、練習に押しかけてトライアウトを受けさせてもらえるよう直談判できたかもしれないが、今年はどこのチームも活動自粛中。県をまたいでの移動もNGだった。これまで同様の立場に置かれた多くの先達が選んできた、海外でレベルアップを図りながら次のシーズンを待つというオプションも、今年はありえなかった。ニュージーランドもオーストラリアもコロナを封じ込むのために国境を封鎖。解除の見通しは立っていなかった。エージェントからも、どこからも反応はないという答えが返ってきた。
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「それもそうだろうな、自分がリクルーターでも、採るなら若いヤツだろうな、と早々に思っちゃったんです」
頭をよぎった子供たちとの触れ合い。
自分でチーム探しに動かなきゃ移籍先なんて見つからないよ――そんな助言も受けたが、いったんエージェントにお願いした以上、自分から動くのは気が引けた。竹中の頭では、オファーがないならどうやってラグビーを続ける場所を探すかではなく、ラグビーができないなら何をするかという現実が膨らんできた。会社の人事異動は7月に行われる。残るにしても辞めるにしても、5月いっぱいには意思を伝える必要があった。
その期限が迫ってくる。エージェントに依頼したとき「この期間は返事を待とう」と自分で決めた2週間が過ぎたとき、気持ちは吹っ切れた。筑波大に戻って教職課程を履修しよう。
「最初から、どこからも声がかからなかったときはどうしたらいいか考えている自分がいました」
昔から勉強は好きだった。子供と接することも好きだった。大学のときも、最初は教職課程を選択していたが、日本代表の合宿が続いて単位を落としたこともあり、途中でやめていた。だがNECで過ごした5年間、多世代交流、社会貢献活動で小中学校へ出向き、子供たちと接した経験が、自分の心に変化を起こしていた。ある中学校で職業紹介の特別授業をしていたとき、緊張していた子供たちの1人がおそるおそる「筋肉に触っていいですか」と尋ねてきた。いいよ、そう答えた竹中の、丸太のような腕に触れた少年の顔に驚愕の色が浮かんだ瞬間、教室の空気が変わった。温度が変わった。子供たちみんなの顔色が変わった。その瞬間に立ち会ったとき、「この子たちは、これからどうなっていくのか、見てみたいな」という気持ちが頭をよぎった。教師という職業への興味が何年かぶりでよみがえった――戦力外通告を受けて以降、竹中の頭を、そのときの感覚が何度もよぎった。