野球のぼせもんBACK NUMBER
ルーキー・松田宣浩を覚えているか?
2006年の熱男と王監督の助っ人解雇。
text by
田尻耕太郎Kotaro Tajiri
photograph byKyodo News
posted2020/04/18 09:00
2005年ドラフトの希望枠で入団を表明した松田を、亜細亜大に訪れた王監督。
プロ初打席は、意外にも送りバント。
これで松田宣は三塁手としてプロのスタートを切ることになった。ちなみに、松田宣と同期ドラフトで入団(大学・社会人ほか5巡目)していたのが、のちの正二塁手の本多雄一だった。もし松田宣が二塁手に挑戦していたら、本多のレギュラー獲り、もしくは現在の松田宣はなかったはずだった。
かくして松田宣は2006年3月25日、当時のヤフードームでのロッテとの開幕戦に「7番三塁手」でスタメン出場する。新人野手の開幕スタメンは球団では小久保裕紀以来12年ぶりだった。期待の表れである。
しかし、これもなかなか憶えられていないだろうが、松田宣のプロ初打席は意外にも送りバントだった。
スラッガーとして期待をされていたが、あくまで“未来の”という枕詞がついていた。打率はしばらく2割前後を行ったり来たり。肝心のプロ初本塁打も4月22日まで生まれなかった。
プロ1年目は62試合出場で打率.211、3本塁打、18打点。6月15日の出場を最後に、シーズンの残りをファームで過ごした。
バットを担ぐようになったのはいつから?
「自分のバッティングが、全く通用しなかった」
松田宣といえば、独特すぎる打撃理論が特徴的な選手だ。体の前にミートポイントを置く打ち方を「前・手・ギュン」と名付け、空振りやファウルをした後の「ケンケン打法」は松田宣のもう1つの代名詞となっている。そして、構えも面白い。バットを肩に担ぐ。他に類を見ない打席での姿だ。
しかし、ふと思い返すと、ルーキー時代の松田宣はこんな打ち方をしていなかった。バットも立てて構えていた。
それが、なぜ、あのように極端な打撃フォームとなったのか。きっかけを作ったのは当時二軍監督だった秋山幸二のアドバイスだった。テイクバックをしてトップを作るまでに無駄な動きが多いと判断した秋山二軍監督が担ぐことを提案。最短距離でバットを出すための意識付けをさせたのだった。
「シンプルにボールをとらえられるようになった。それが僕にとっては大きかった」