マスクの窓から野球を見ればBACK NUMBER
センバツに救済策は本当に必要か。
球児の日常は1日1日が宝物なのだ。
text by
安倍昌彦Masahiko Abe
photograph byHideki Sugiyama
posted2020/03/21 11:50
センバツ中止の救済が必要だ、という前提そのものを考える必要がある。救済、とは何なのだろうか。
気の毒だが、あることだ。
別の季節に、甲子園を貸してもらって、果たして練習試合がしたいだろうか?
試合はしないで、甲子園のグラウンドに立たせてもらって、果たして心は揺さぶられるのか? 心に深く刻みつけられるのか?
ほかに、何か、「センバツ」と引き換えに出来るような気持ちの納め方があるだろうか……。
私が「センバツ球児」なら、救済策などいらないと考えるだろう。
私たちが楽しみにしていたのは、あくまでも「センバツ」であって、他のどのような「センバツのようなもの」とも、決して引き換えにはできないんじゃないか。
考えは“そこ”に至った。
情として、選手たちはまったく気の毒だと思う。
ただ、こうしたことは、世の中には「あること」だ。ちょっと頭が冷えてきたら、そこのところもわかってほしい。
長いこと楽しみにしていたことが、自分の力ではどうしようもない理由で、急に叶わなくなってしまうこと。それは、人の人生にはわりとあることなのだ。
それが、今回、たまたま「コロナ」であり、「センバツ」であった。
オレたちだけがどうして……決して、そうは考えてほしくないな、と思う。
過去を学ぶ機会にだってなる。
センバツ中止の理由が、「戦争」じゃなくてよかった、とも思う。
かつて、この国のたった80年ほど前に、太平洋戦争のために、「高校野球」を取り上げられ、その代わりに、救済策どころか「戦場」に駆り立てられた球児たちが少なからずいた。
コロナウィルスという見えない難敵を相手に、世界じゅうが闘っているという意味では、今は「戦時下」に等しいともいえるかもしれない。
弾が飛んでこない「戦場」のぶん、自分たちのほうがマシとか、そんなふうに考えてほしいわけじゃない。
たとえば、過去にそういう事実があったんだということを、学ぶ機会にしてくれたらと思う。