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アマ球界の王道投手を変えたSNS。
ダル、お股ニキとの出会いと起業。
posted2020/03/15 20:00
text by
清水岳志Takeshi Shimizu
photograph by
Takeshi Shimizu
「自分の持っている知見を世の中に還元しなければいけないと思いました」
使命感にかられる、ということ。
内田聖人(26歳)と話していて印象に残った言葉だ。
かつて、プロを目指したピッチャーが現役引退後、その経験を伝えていくために起業した。
アマチュア球界の真ん中を歩いてきた。ただ、最後の夢を叶えられたわけではない。
静岡県の伊東シニア時代、日本代表に選ばれ、高校は東京の早稲田実に進学。2年夏の甲子園に出場した。翌年も西東京大会決勝でその年、甲子園を制覇する日大三と対戦。1対2で敗れたが高山俊(現阪神)、横尾俊建(現日本ハム)らと接戦を演じた。
早大では1年春からリーグ戦に登板し、最速150キロを記録した。しかし、大学3年で右ひじのケガを負う。4年でチームは六大学リーグで春秋連覇、大学選手権を制し秋の明治神宮大会でも決勝に進んだものの、自分は投げることが出来なかった。
「貢献度は低かったです。実はヒジに手術適用のケガを負ってました。手術すると4年生のシーズンに投げられない。プロへの道も閉ざされるので手術を見送りました。実戦を離れる決断ができて、次のチャンスを待っていたらどうなっていたかなと」
野球人生、思い返して悔いがあるとすれば、そこだ。
社会人でもケガで苦しんでいた。
大学からプロ入りというレールからは外れ、社会人の名門、JX-ENEOSに入社する。しかし、そこでもずっと迷走の日々だった、という。
「ケガへの対処がわからなかった。体が使える状態でなくて、イップスのような感じだった」
社会人2年間ではほとんど、ゲームで投げることなく、戦力外になった。
ただ、内田の克己心が発揮されていくのはここからだ。
社業として天然ガスの営業をしている間も、マウンドにもう一度、立ってみたい、という思いが消えることはなかった。仕事を終えた夜、近所の公園の小さな街灯の下だったり、出張先のホテルの一室だったり。1人、シャドーピッチングやチューブを使ってフォーム固めをした。