フランス・フットボール通信BACK NUMBER
バルサの神童アンス・ファティ。
アフリカの内戦に追われスペインへ。
text by
ロムアルド・ガデベクRomuald Gadegbeku
photograph byMiguel Ruiz/FC Barcelona
posted2019/12/26 07:00
バルセロナで16歳と304日目にしてゴールを決めたアンス・ファティ。バルサの最年少ゴール記録を見事に更新した。
天才少年の噂はあっとういう間に広まった。
6歳半のアンス・ファティは、同じ年齢のチームでは能力が飛び抜けていた。
「ひとたびボールを保持すると、誰も彼から奪うことができなかった。だから9歳のチームに飛び級させたが、そこでも彼以上の子供は誰もいなかった」と、最初の指導者であったアマドール・サベドラ・ムニョスは語った。
瞬く間に名前は地域全体に知れ渡り、噂はFCセビージャにまで届いた。
セビージャに2年在籍した後に、兄のブライマとともにバルサのマシアに入ったのだった。カタルーニャに移り住んですでに7年になるが、彼の心は常に自分を受け入れてくれたクラブとともにあった。
「時間ができるや否や、彼はエレラに戻ってくる」と、前述したCDFエレラ会長のメニャが告白する。
「そしてクラブを助けてくれる。彼のおかげで選手たちはバルサの選手と会うことができたし、カンプノウへの訪問も実現した。
われわれが彼に多くを与えたように、彼もできる限りのことをしてくれている。ようやくスペインの市民権を獲得したが、アンダルシアに住んでから10年がたっているから、ちょっと時間がかかりすぎたと思うね」
ファティの境遇はカントナと似る。
ギニアビサウ時代、父ボリ・ファティは内戦が始まる1998年までセミプロのサッカー選手だったという。戦争により夢を絶たれた選手は多かったが、彼らは子孫に何がしかを残そうとした。ちょうどエリック・カントナの場合がそうであったように。
カントナの祖父ペレ・ラウリシュは、スペイン市民戦争の際の人民軍兵士であった。インターネットサイト『ザ・プレイヤーズ・トリビューン』の中でカントナは、祖父母がフランコ派の迫害を避けて、1939年にフランスのアルジェレ・シュル・メールに移住した際のことを語っている。
「フランス人が、避難してきた彼らを虐待するなど考えられるだろうか。彼らが見せたのは、困窮した人間を放ってはおけない人類共通の寛容さだった。そんな状況で暮らしていくのが移民の生活だ。移住すべきだったから移り住んだ。そこですべてやるべきことをおこなっていく」
「ボックス(スペインの極右政党)」が、フランコ独裁終焉以来はじめて国会で議席を獲得した今だからこそ、心により強く響く言葉である。