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スノボーの父、J・バートン逝く。
すべてを“滑り”に捧げた男の人生。
text by
野上大介Daisuke Nogami
photograph byBURTON
posted2019/12/20 11:15
ジェイク・バートンの訃報に接し、ショーン・ホワイトは「彼のレガシーを何としてでも後世に伝えていく」とSNSでコメント。
銀行を辞め、バーテンダーやりながら。
遡ること42年、バートンはニューヨーク大学を卒業しマンハッタンの投資銀行に就職したものの、毎日12時間以上働く生活に嫌気がさしていた。と同時に、14歳の頃に出会ったSNURFER(スナーファー: SNOWとSURFERの複合語。雪上をサーフィンのように横乗りで滑るためのおもちゃ)での体験がスポーツとして成立するのではないか、そう本気で考えていたという。
決断は早かった。仕事を辞め、同年12月にはバーモント州ロンドンデリーに移り住み、『BURTON BOARDS』を創業。夜はバーテンダーのアルバイト、昼はプロトタイプを製作しては近所の丘でテスト滑走を繰り返した。
当時はユタ州で設立された『WINTERSTICK』、カリフォルニア発の『SIMS』が先発メーカーとして存在していたが、自らを「ビジネスマン」と称するだけに商売が上手かったのだろう。90年代に入るとトップブランドとしての地位を確固たるものにし、誕生からわずか20年あまりでオリンピックの正式種目として採用されるほどのスポーツへと昇華させた。
誰よりも“滑ること”を愛していた。
そうしたスノーボードのパイオニアであるバートンだからこそ、冬の訪れを誰よりも喜び、それをシェアしようと皆をもてなしていたに違いない。
FALL BASHの開催中はバートン邸のすべてが開放されていた。母屋と、ライブ会場に使用されていた離れは地下でつながっており、スケートボードでの移動も可能。さらに、卓球やビリヤードが楽しめるプレイランドからドッジボールなどができる人工芝の球技場に至るまで、バートンの遊び心が詰め込まれたアミューズメントパークと化していた。
プロショップさながらのチューンナップルームが完備されており、1階の書斎には50~60本のボードやバインディング&ブーツ、そしてウエアも揃っている。
彼自身もプレイヤーであり、開発の一端を担っていた。会社経営が軌道に乗った1999年からは、「年間100日以上滑る」ことを心に決めたというバートン。さらに多くの降雪に恵まれた翌日は、出社前にライディングすることを社員たちにも奨励した。何よりも“滑ること”を愛していたのだ。