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佐藤賢次HCからPG篠山竜青へ。
名門・川崎、継がれるレガシー。
text by
ミムラユウスケYusuke Mimura
photograph byB.LEAGUE
posted2019/12/15 11:40
12月12日現在、16勝3敗とリーグトップの勝率(.842)をあげている川崎。指揮官の佐藤賢次HC(右)と主将の篠山竜青の信頼関係は厚い。
「奈良のマイケル・ジョーダン」と呼ばれた。
ただ、引退する前の最後のシーズンに主力として過ごせた意味については、力をこめて、こう話す。
「本当に、良い経験でした。あの1年の経験がなければ、今の自分も変わっていたんだろうな、と思いますから」
佐藤はポイントガード(PG)の選手ながら、奈良県にある大瀬中学時代には「奈良のマイケル・ジョーダン」と呼ばれ、日本一を経験。洛南高校時代は一つ下の学年の田臥勇太率いる能代工業がいたものの、全国で2位まではたどり着いた。
そして、青山学院大4年生の時に日本一になり、リーグ戦でもMVPをとった。その活躍が認められ、当時の東芝の一員となった。
2002年に加入した当初は、日本代表としても活躍した節政貴弘というクラブ史に残るPGがいた。それゆえに先発する機会は基本的にはなかったが、歳を重ねるごとに出場する試合数やコートに立つ時間を少しずつ伸ばしていった。
プレー時間が極端に落ち込んだ。
ところが、プロ6年目となる2007-'08シーズンには出場試合数が2試合、平均プレータイムも3分台にまで落ち込んでしまう。
このシーズンから菊地祥平(現アルバルク東京)と石崎巧(現琉球ゴールデンキングス)という2人の大型ルーキーが入ってきたからだ。
彼らの当時の実力を見ると、彼らを中心に長期的な視点でチームを強化していこうと首脳陣が判断するのも不思議ではなかった。石崎は、佐藤と同じPGの選手だった。
その結果、プレー時間が極端に落ち込んだ。その後の2シーズンは、節政が引退したこともあり、少しは出場時間が伸びたものの、このタイミングでキャプテンを任されるようになった佐藤の意識は異なる方に向くようになった。
「コーチなどと話すなかで、石崎や菊地を次の東芝の核にしたいという組織としての考えも知りました。当時の僕の変なこだわりかもしれないですけど、キャプテンとして自己犠牲を……つまり、試合に出られなくても我慢して、組織としての目標を達成できるように頑張ることが一つのモチベーションでした」