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運命の馬で“夢”を叶えた名物馬主。
キズナ産駒と武豊でダービーを。
text by
島田明宏Akihiro Shimada
photograph byHideharu Suga
posted2019/08/18 08:00
「ディープインパクトそのままの走り方でした」。佐々木調教師はかつてのキズナを見て“大物の予感”がしたと振り返る。
最も期待できる馬に付けた「絆」。
翌2011年3月11日、東日本大震災が発生した。それから2週間ほどしか経っていなかった3月26日、ドバイワールドCで日本馬が1、2着を独占。2着になったのは前田代表が所有するトランセンドだった。
「現地のホテルでも競馬場でも、いろいろな人から、日本を思いやる、温かい言葉をかけてもらいました。それに感銘を受け、震災を機に盛んに使われるようになった『絆』という名を、最も期待できる馬に付けることを決めました」
こうして馬名が決まったキズナは、同年秋、鳥取の大山ヒルズに移動した。そこはノースヒルズの生産馬のほか、前田代表や、弟の前田晋二氏らチームノースヒルズの所有馬の育成と調教を専門に行う施設だ。
馴致を終え、キャンターで走るキズナを見た佐々木調教師は目を見張った。
「ディープインパクトそのままの走り方でした。着地の時間がすごく短く、すぐ次の動作に入る。これは大物になる、というおぼろな思いが確信に変わりました」
毎日杯の勝利で「吹っ切れました」
当初は、2歳時の2012年6月にデビューする予定だったが、挫跖のため延期。同年10月7日、京都芝外回り1800mの新馬戦が初陣となった。道中、中団につけたキズナは、ラスト200mを切ってから鋭く伸び、2着を2馬身突き放した。
2戦目の黄菊賞も完勝したが、その2週間後に主戦の佐藤哲三が落馬で負傷してしまう。陣営は、新たな鞍上に武を選んだ。
武とのコンビ初戦となった12月22日のラジオNIKKEI杯は3着。年明け初戦の弥生賞も5着と、結果が出なかった。
この時点で、陣営は皐月賞をスキップし、ダービーに照準を合わせることを決めた。
次走は毎日杯となったのだが、武のエージェントからは別のレースにしてほしいと佐々木師に申し出があったという。
「どうしてかなと思ったら、その3年前、豊君が落馬して大怪我をしたのが毎日杯だったんですね」
それでも、武とキズナは毎日杯に臨んだ。そして、後方一気の競馬で3馬身差の勝利を収めた。武はこう振り返った。
「あの一戦で吹っ切れました。ぼくにとって、大きな勝利でしたね」
毎日杯について回った重苦しいものを、キズナが吹き飛ばしてくれたのだ。