ファイターズ広報、記す。BACK NUMBER
矢野謙次と石井裕也の恩人を訪ねて。
日本ハムでの引退、寂しさと喜び。
text by
高山通史Michifumi Takayama
photograph byKyodo News
posted2018/10/13 09:00
矢野は16年間、759試合で打率2割6分2厘、29本塁打。石井は14年間で330試合に登板し、19勝19敗、83ホールド。防御率3.05だった。
「ヤンチャだけど真っ直ぐ」
竹田総監督は、目を細めて回想した。
「矢野はね、自分で考えてよくやっていました。入学した時から絶対にプロへ行くんだ、とね。意志が強かった。そこが、ほかの選手とは違いました。そんなに体も良くないけれど、一生懸命でね。努力することを、それが努力だとは思わず、常に努力をしているような選手でした。ヤンチャなところもありますけれど、とにかく真っ直ぐでね。プロで16年間ですか……。まだまだできる、とは思ってはいますけれど、よくやりましたよ」
プロ入り後も、思い悩めば、昼夜を問わず電話で相談してきたという。オフシーズンの練習拠点の1つが、この母校のグラウンドだった。そこには、竹田総監督がいる。だから、矢野選手は、いつも足を運んだのだろう。
感情を抑えるように完遂した引退セレモニーのスピーチ。ただ「竹田監督」の名前を挙げた瞬間は、言葉に詰まった。感極まった。プロ、アマと数々の監督に育まれてきた野球人生の中でも、特別な存在だったのだろう。そんな唯一無二の恩師に触れる機会を、私もいただいた。
「サイレントK」と谷繁と福留。
難聴というハンディキャップがありながらも、厳しいプロのマウンドに14年間も根を張ったのが石井裕選手である。「サイレントK」と呼ばれた左腕は9月30日の引退セレモニーをもって、ユニホームを脱いだ。
その野球人生に寄り添った2人から、サプライズメッセージをいただく場に同席することができた。
プロ入りした中日ドラゴンズ時代にバッテリーを組んだ谷繁元信氏と、その時にチームメートだった阪神タイガース福留孝介選手である。
石井選手には、それぞれに対する思いがあった。
谷繁氏は、石井選手の持つ障害を忖度せず、健常者の選手と同じように怒ってくれたという。それがうれしく、感謝していた。
福留選手とは、プロ野球人生でたった1度だけの光景を一緒に見た。人前で積極的に話さない石井選手が唯一、お立ち台でヒーローインタビューに臨んだのがルーキーイヤーの2005年4月。強引に連れ出し、一緒に立ってくれたのが福留選手である。