相撲春秋BACK NUMBER
長期休場した横綱たちの物語――。
貴乃花と武蔵丸のライバル秘話。
text by
佐藤祥子Shoko Sato
photograph byKyodo News
posted2018/09/10 16:30
右ひざのけがを押して優勝決定戦に臨み、武蔵丸を左上手投げで下し優勝した貴乃花。
「貴乃花、痛かったらやめろ!」
「自分の定義として、ケガするのは自分がいけないんだと思っています。自分が招き入れたものだから、それは乗り越えなきゃいけない。勝ち負けより、気持ちだけで土俵に上がるしかない。だって14日目に勝ってさえいたら、そのまま私の優勝が決まっていたわけです。ここでケガをうんぬんするのは、勝ち負けより恥ずかしいことだと思っていました。武蔵丸関と当たれるし、『これでもう、引退が飾れるかもしれない』という思いが、どこかにあった。横綱同士の対戦が最後の一番になるというのは幸せなこと。たとえ負けたとしても、です」
そう、のちに述懐している。
そんな悲壮な覚悟をもって迎えた、22回目の優勝を掛ける千秋楽、結びの一番。貴乃花は患部を痛々しいほどのテーピングでガッチリと固定し、土俵に立つ。その姿に誰もが息を飲み、仕切りで塩を取りに行った武蔵丸の耳には、土俵下に審判として座る九重親方(元横綱千代の富士)の声が聞こえた。
「貴乃花、痛かったらやめろ!」
優勝決定戦までもつれこむには膝がもたないだろう、それだけは避けたい、この本割で決着しなければ――そんな不安を打ち消しながら残れる気力を振り絞っていた貴乃花に、その声は届かなかった。
「最初からやる気が出なかったよ」
「あの時の武蔵丸関は、やっぱりやりにくかっただろうと思います」(貴乃花)
「やりにくかったというか、最初からやる気が出なかったよ……」(武蔵丸)
後年、互いにこう心情を吐露したように、本割では立ち合いの呼吸が合わず、3度仕切り直す。そして、武蔵丸の突き落としに貴乃花はあっけなく、バッタリと前のめりに倒れた。わずか0.9秒。
賜杯の行方は、優勝決定戦に持ち込まれた。
「棄権しようとは思わなかったです。もう自分は引退間際だと思っていたし、『ここで棄権しても意味はない』と。同情されるのも苦手で、『それなら潔く吹っ飛ばされて負けた方が気が楽だな』って――」
この時の心境を、貴乃花はこう振り返っている。
いざ、雌雄を決する優勝決定戦。
土俵上、仕切る貴乃花の膝が、再び外れる。「決定戦に出たからには、せめて恥ずかしくない土俵態度を示さなければ」との矜恃だけが、その膝を支えていた。そんな貴乃花に「土俵の神様」がわずかに味方した。塩を取りに行った際に膝を回すと、奇跡的に、うまくはまってくれたのだ。