サッカー日本代表PRESSBACK NUMBER
昌子源から鳥取の恩師へ届いた返信。
「ポーランド戦、絶対に勝ちます!」
text by
石倉利英Toshihide Ishikura
photograph byKazuo Fukuchi/JMPA
posted2018/06/27 07:30
吉田麻也とともに日本の最終ラインを束ねている昌子源。レバンドフスキ封じという大きなタスクを担う。
試合終了後40分ほどで「勝ちました!」
勝利の瞬間、第1会議室からはこの日一番の大歓声が湧き起こった。直後に城市総監督が昌子の携帯電話に祝福のメッセージを送ると、40分ほどで返信が来たという。
「『勝ちました! ありがとうございます!』って。ロッカールームに戻って、着替えてすぐくらいじゃないかな。落ち着いてから返信してくれればいいのに。律儀なところがあるんですよ」
鹿島アントラーズで地歩を固め、Jクラブ所属の選手では唯一、先発メンバーに名を連ねた昌子源。10年前に入学した米子北高校でのプレーが、キャリアの大きな転機だった。
2008年、G大阪ジュニアユースから米子北高校に進んだ昌子の当時のポジションは、FWだった。
Jクラブのアカデミーで磨いた技術は一級品で、キックも素晴らしいものを持っていたが、「うまくてボールを持てるがゆえに、判断のスピードが遅いところがあった」(城市総監督)。足を止めてしまうことが多く、堅守速攻をベースとする米子北高校のスタイルでは、持ち味を発揮しにくい状況にあった。
泣いている昌子に語りかけたこと。
城市総監督は「オールラウンドな能力があったので、あのままFWでもプレーできただろうし、アタッカー、ボランチ、サイドバックでもできたと思う」と語る。だがチーム事情も踏まえて、1年の途中でセンターバックにコンバートすることを決めた。
本人の将来も考えた上でのコンバートだったが、得点を決めることが好きだった昌子にしてみれば、面白くない。親元を離れての寮生活によるホームシックも重なり、ある日の練習中に涙を流し、途中で寮に帰ってしまった。
その日の夜、寮に向かった城市総監督は、泣いている昌子に語りかけた。
「きちんと練習すればスーパーな選手になるし、やらなければダメな選手になる。真ん中はないと感じていました。だから『スーパーな選手とダメな選手、どっちになりたいんだ』と聞いたら、『スーパーな選手になりたい』と答えたんです。本人がそう思っているのは分かっていました。だから『それなら、やるしかないだろ』と」