JリーグPRESSBACK NUMBER
上田康太が名波と俊輔から学んだこと。
磐田を離れた左利きが岡山を牽引。
text by
石倉利英Toshihide Ishikura
photograph byJ.LEAGUE
posted2018/04/28 08:00
上田康太のフリーキックには、たしかに俊輔の雰囲気を感じる部分がある。
チームが勝つために周りを誘導する俊輔。
昨季、磐田でチームメイトになった中村俊輔とは、全体練習後に何度もボールを蹴った。FK以外でも学ぶことが多かったという。
「俊さんは、ああしろこうしろとは、あまり言わないんです。でもサイドハーフでプレーしていたら、サイドバックとかFWとか、近くのポジションの選手に少しずつ指示をしながら、プレーしやすいように周りを形づくっていました。
チームが勝つために、自分がやりやすいように周りに動いてもらいながら、周りも生きるように誘導しているような。あの感覚はすごいと思いました」
同じレフティーのMFに刺激を受け、成長を実感した1年。それは一方で、悔しさをかみ締めたシーズンでもあった。
「足が速いわけではなく、体も強いほうじゃない。でもアイディアや体の向き、パスの質で勝負していて、そういう選手はなかなかいない。くぎ付けになっていました」
チームメイトとして、監督としての名波。
上田が磐田ユースに加入した2002年と前後して、磐田と日本代表の中盤に君臨していた憧れのレフティーが、名波浩だった。上田が'05年にトップチームに昇格してからはチームメイトに。大宮と岡山を経て'15年に磐田に復帰してからは、監督と選手という関係になった。
この年から、名波が現役時代につけていた背番号7も背負った。当時の磐田は1年でのJ1復帰を逃し、2年目のJ2を戦う苦闘の時期。上田は「サッカー人生を懸けてプレーする」と不退転の決意を語っていた。
J2リーグで36試合に出場した上田の奮闘もあり、J1復帰を果たした磐田は、'16年は年間13位、昨季は6位と、右肩上がりで復活の道のりを歩む。だが上田自身は、'16年のリーグ戦出場が18試合、昨季が13試合と、徐々に出場機会を失っていった。
「もちろん自信はありました。選手なら誰でも感じることで、『試合に出してくれれば……』という思いもありましたけど、自分の実力不足だったと思います。
名波さんからの要求が、普通の選手よりも高くなるのは分かっていました。その要求に応えてこそ選手だし、不慣れなことにもチャレンジしましたけど、なかなか結果に結びつかなくて」